足利義晴・義輝仮御所 幕府支援者 朽木氏岩神館

東京の医療崩壊が始まりつつあるようです。

私の屋根仕事ではあるまいし滑り出したら止まらない・・・を感じる爆裂の様。

またも感染者数が更新されました。

たれもかれも「自分は大丈夫」の無根拠の「私主義」による行動の結果です。

一番に怪しくて信用がおけない者は「私である」のにね。

 

以前拙ブログにて「止めるのは学校ではなくて山手線」などと書き散らかしましたがそれは3月2日の4週前のこと。

 

これまでくずぐずもたもたの躰を晒していましたがあの段階で東京全体の活動を止めていれば今のような爆発は無かったのでは・・・などと思います。

あたかも「小田原評定」を見ているようで。この期に及んで「検討、検討」のオンパレードでまったくバカみたい。

 

横浜の息子は吹雪の中2件の法事を何とかお勤めできたようです。何とか何とかうまい事やり過ごして欲しいものです。

ちなみに彼にご法話は何だった?と聞けば(Lineです)真面目にも「悪人正機」と返ってきましたので奥方の弁「適当なことをいってんじゃねぇよ」を伝えるとブチ怒っていました(ブチは静岡弁「ひどく」「とても」です)。

彼は一所懸命にやってるようです。

それこそ何事も開き直りの「本願ぼこり」でなく本当の自分を「知ること」ですね。

 

さて、昨日は大河ドラマのお楽しみについて記しましたがやはり大河について。昨日のドラマ内、足利義輝のあの描き方となると三好長慶ほか一統は悪役・・・が推察されて世間様のイメージは悪くなる・・・と危惧した次第。

大河ドラマに三好長慶を・・・を応援する私には分が悪い展開でしょうか。

 

ドラマの展開の中で意外だったのが義輝が逃げ込んだ「朽木」の名が出てきて、番組最後の紹介にもあったこと。

まったくサプライズでした。堅田の名も早くも登場していました。

 

朽木といえば琵琶湖近隣、地区的にいえば高島という括りになりますが、京都と小浜を結ぶ主要な街道の中継点。かといって少しばかり地味な場所。

 

日本海からの新鮮な魚を運ぶ別称「鯖街道」とも呼ばれる戦略的にも重要な道ですね。

先日、高島清水山城について触れましたがそちらの近く琵琶湖に注ぐ安曇川伝いに進めば朽木の地に当たります。

 

この道を京都方面に進めば大原を経て50㎞弱で京都市内、白川通に入りますのでわざわざ「大津辺りまで戻って・・・」などと考える必要はありませんね。東上する際はしばしば京都から大津に出ています。

バカ混みの三条、五条からの京都インター方向を避けてこの比叡山を回り込むようなコースを選択することもありました。

 

この朽木は近江源氏佐々木信綱、高島氏系で「高島七党」の一家とります。

朽木氏岩神館は岩神村の河岸段丘上にあった城塞で佐々木信綱が承久の乱(1221)の戦功によって朽木荘を得て、三男の奏綱(六角氏祖)に守護職を譲った後に朽木に入ったといいます。

元は京都北白川の寂楽寺の寺領だったそうです。

 

城館の位置は当初、朽木村市場付近が通説だったようですが最近の調査から現在の興聖寺が朽木氏城館だったことが分かっています。

江戸中期に佐々木信綱開基の興聖寺が今の位置に移転してきたということです。

本堂裏側の様子はかつての空堀、土塁の遺構を窺うことができます。

 

特に戦国末期は朽木氏の幕府補佐役(12代足利義晴・13代義輝将軍)として名を残しています。

弱体幕府将軍がしばしば近江への逃避行をしていますが、坂本から朽木は毎度の場所。仮御所ということになります。

 

ドラマでは義輝と光秀の接見の場がこの朽木館でしたが、そもそも将軍義輝の名乗りはこの朽木館でした(場所はこちら)。

 

その父、将軍義晴が朽木稙綱を頼って2年半の間こちらに滞留していますが、稙綱は将軍の気を安らかにするために銀閣の庭園を真似て蓬莱池泉観賞式庭園を造ります(享禄元年1528)。

それがそちらにそのまま遺っています。

 

本堂に光る四ツ目(→福知山城朝暉神社)に朽木氏菩提寺らしい笠塔婆風石塔の紋が。

本堂の脇に何げなく立つ石標⑪も興味深く拝見。

庭園作庭時のものかも。