光秀の本能寺は本願寺合力? 今堅田城 泉福寺

オリンピックの延期はやむなしとの決定があったとして・・・

やはり中止よりは延期の方がマシとはいえ、各方面で大損を被る人が多数出るでしょうね。

「要は経済的損失」と一括りでいわれますがまぁ素人考えで殴り書きすれば(いつものことですが)空前絶後の阿鼻叫喚に至るのでは。

 

別の言い方をすれば「開催を期待して行った各投資資金の回収が遅れる、できない」ということになりましょうが、この投資資金借り入れ担保の劣化(株式保有者大量虐殺)の時代となりましょう。損金ローン返済の継続はキツイものがありますね。

 

また昨日一番に驚いたのは(毎日驚かされることばかり・・・)オリンピックの観戦チケットの件。

昨年末頃までは嘘みたいに高額なチケットに引手あまた、抽選がなされて当たった外れたの悲喜こもごもの様子を拝見していましたが、報道によれば「払い戻しはしない」と。

「規約」にそうあるそうですが公営ギャンブルならぬ公営ボッタくり詐欺にあったような感じでしょう。

私はただ傍観しているのみですが、大量にチケットをゲットして意気軒高の方々の消沈に救済処置はないのでしょうかね。

 

「規約」の件、以前にも記したことがありましたが昔路上にいた詰将棋の類、テーブルの脇に「一指し〇〇円」などと小さい字で書いてあったことを思い出します。

この将棋は詰められないようにできていて結局最後には仲間が出てきて囲まれ財布の中身を抜かれるというパターンですが、彼らの根拠は「ルールはちゃんとここに書いてある」と主張するというもの。しっかり確認しないでお遊びに飛び入りしたお前が悪い・・・ということですね。

 

ホントにそうなるのか知りませんが、前回の東京マラソンもそのボッタくりだったようで・・・

 

さて、昨晩のテレビ小僧はコロナの話題から離れてNHKの本能寺の特集番組を「流し視聴」。

「光秀のその動機」について各方面の研究者が語りあうバラエティ風番組の再放送がありました。何故か阿弥陀如来の立像の前での討論番組の躰。

まぁいろいろ出てきますが、人の思いというものは各経験による何かが蓄積し(鬱積とも)どこかの機会にたまたま弾けることがある・・・のであってピンポイントで「コレです」とは言い難いところがありますね。

 

その専門家の皆さんが仰る中で私の勝手な論をお茶の間で記すとすればやはりコレまでと変らずに本願寺協調、同情の動き・・・というものです(先日のブログ)。

まぁ「天正十年六月三日」の信長軍本願寺鷺ノ宮総攻撃の前日の「二日」に本能寺の変が起こるわけですが、もしそれが少しでもズレてしまえば私ども本願寺は無かったと断言してもいいくらいのタイミングなのですね。

 

結果として秀吉そして家康という二大勢力が大きな果実を得たことは周知になりますが、それら以上に本願寺に恩恵があったことは忘れられているのではないでしょうか。

450年近く経った今、残っているのは本願寺です。

 

そちらのブログの追記と補足にもなりますが、後世当流ではその辺りの件(光秀のおかげ)は周囲多方面に憚ったのかその「快挙」については表に出してきませんでした。

敢えて言えば「阿弥陀如来のおたすけ」ということですが、特に明治維新後に明治天皇が織田信長を復権させたい意向を顕わにしていましたから。

ということで本願寺があるのはあくまでも「ただの偶然」としてあまり着目されていないということです。

ただ私は「光秀のおかげ」の気持ちは捨てきれません。

 

比叡山直下、近江志賀堅田地区といえば当時本願寺門徒の地盤でしたが、一昨日昨日も記している「出島」(でけじまー出来島とも)には今堅田城という海上海運の城塞がありました。

 

昨日の小番城城同様、城郭の遺構はもはや分からなくなっていますが今の出島灯台周辺というのが通説です。

そしてその近くにある泉福寺(真宗大谷派)が本拠であったともいわれています(場所はこちら)。

 

この地に城を築いたのは堀口掃部介貞祐です。

貞祐は清和源氏新田氏系一族でその父貞満(上野国新田郡)は新田義貞配下で後醍醐天皇の短慮にたしなめの奏上を行うなど知略に富んだ武勇の人として名があります。

 

以下「城郭大系 今堅田」から

「太平記によれば貞祐は堅田に居住し足利義詮の北国落ちの時、後陣にいた京極道誉の長子秀綱を討ち取ったといいその堀口氏はそののち今堅田に住み泉福寺の住持職をつとめている」

「その後、浅井・朝倉軍が信長に対抗するために今堅田城に甲賀武士団の磯谷新右衛門を主将として守備させたが明智光秀・丹羽長秀らに湖から攻撃をうけて落城した。この時の戦況をルイス・フロイスは坂本より二里の堅田-今堅田-の城を攻めたり、同城は一向一宗徒に属し・・・と述べている」

 

この寺の直近に勾当内侍(新田義貞の妻)の墓がありましたが、こちらのお寺が管理されているのかも知れませんね。

 

私がなるほどと思うところはこの泉福寺の出自と関わりのありそうな堀口貞満の系ですが、この貞満の娘が土岐氏一族の長山頼基(土岐九郎)に嫁いでいてその系が明智氏の祖となりますね。

 

光秀は自らの明智家祖ともかかわりの深い堀口、泉福寺そして本願寺への理解と配慮と同情は他の信長配下の武将に比べて(森蘭丸兄弟は真宗系でしたが)強くあったのではないでしょうか。

 

堅田の本願寺勢もそういった光秀の出自についても理解し、その後の彼の治世に比較的従順に従っていたと考えています。

そのような良好な関係の中、光秀に本願寺を助けたいという気持ちが起こったとしても不思議ではありません。

ここ堅田から光秀と本願寺の関係が醸成されたと見ています。

(現状それを言う歴史学者は不在のようですからやはり超マイナーな解釈なのでしょう)

 

①は灯台方向から見た泉福寺。④⑤は今堅田の街中で。

⑥は灯台。