ホントは明智より朽木がお馴染み 福知山城朝暉神社

しかしあのトランプという男はハチャメチャです。

第三国イラクの上空に侵入させた米国飛翔体からミサイル攻撃をしてイランの要人を殺すという暴挙でした。

理由は「テロリストだから」とのことです。

それを言えば殺人OKと。

イランだって黙っていられないでしょうね。

戦争になれば罪もない人たちが巻き添えを喰らいます。

それをわかっていながら何故にそんなことができるのでしょうかねぇ

自らの弾劾から目を反らすという手法だそう。

ただの人殺し。国家という後ろ盾があるから「合法」と。

何しろお話にならないほどのバカでしょ、あの人は。

日本の政治屋さんも何とか言えば・・・だんまりしていないで。

 

お金持ちというのは何でもできると勘違いしているのでしょうね。ゴーンもそんな口でした。

イランの皆さんお願いですから、ここは一つ我慢を決めてください。

トランプ1人だけにその罪を償う機会を待ってください。

何も関係ない人を傷つけてしまう仕返しは控えてください。

「眼には眼を」の心情は大いに理解できますが今度の暴走はトランプ1人の独断なのですから。

 

「今そこにある危機」それはアメリカ大統領。

自国第一主義の風潮は世界崩壊の序章となりつつあります・・・

 

しかしトランプはビビッて当分外を出歩けないのでは・・・

飛行機の離着陸の際の地対空ミサイル、絶妙のターゲットでしょう。ハリウッド映画ばかり見ているとついそんな場面を想像してしまいます。

今度の彼の無茶振りにはイランに肩入れしたくなりました。

 

まぁ遠くから旗振りをするだけですが、今年中にアメリカ国民が何とかしなくてはね。

 

さて、福知山城天守の真下には鳥居と小さな祠のあるエリアが。

この神社の名が朝暉神社です。

 

常陸土浦藩2代藩主で後に丹波福知山藩主として入った朽木稙昌

( たねまさー昨日のブログの⑬) が父朽木稙綱(たねつな)を祀ったのが始まりといいます。

その後裔が天守下に建てたのが朝暉神社。

 

この朽木氏といえば近江北湖西、朽木谷住の「朽木」(→「江州佐々木南北諸士帳 高島」)が大元で、今俄かに言われ出した明智光秀文献上初登場の田中城とも近隣。

要は京都と琵琶湖に隣接した北陸へ下る要地。

 

あの信長の越前からの撤収劇、「金ケ崎の退き口」では稙綱の父朽木元綱が手をかして(朽木越え)の功労者となっています。

信長配下への取り立てはかなったものの朽木家は不遇、しかしながら秀吉には厚遇されていました。

 

関ケ原では当初大谷吉継とともに動いていたといい、小早川の東軍参加とともに同調したといわれ、タイミング的に微妙な立場だったところから、家康の評価は低かったよう。

ところが元網の三男の稙綱が家光に仕えたことによって頭角を現して大名にまでなったということです。よって兄の本家筋とは違う「朽木」ということになりますが、大元は同じ佐々木源氏。四つ目結隅立ての紋が光っています。

 

誰が将軍になるかなど不確定ですが、自分の仕えていた人がたまたまトップに躍り出たりすれば、一気に王道を歩くことが出来るということ。田沼意次しかり・・・

いつの世も御屋形様次第。

 

昨年は地元で朽木入部350年の節目だったようですが、明智よりも断然この福知山といえば朽木の殿様のイメージだったでしょうね。時の重みいうものが違いました。

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コメント: 12
  • #1

    朝輝 耕介 あさひ こうすけ (日曜日, 10 5月 2020 17:14)

    私の根戸籍は大江町内宮に有り、、3代前迄の先祖(明治中期まで)は元伊勢皇大神社の宮司だったと聞いています。
    「あさひ」の読みからしてやはり関係があるのでしょうか?

  • #2

    今井一光 (日曜日, 10 5月 2020 20:48)

    ありがとうございます。
    コメントをいただき恐縮です。ただし私は朝輝姓の何たるかの知識はまるでありません。
    推測ですが、神職も家系として代々続いてる例が多々あります。
    また福知山城内にある同神社は藩主その仁政と領民との良好な関係を窺わせる神社でもありますね。
    明治維新の動乱で城と城下、殿様と民との概念が払拭されてその接点となったていた崇敬神社の意味も一旦消滅し、ご先祖様は以前の流れからそちらの宮司として入った可能性もありますね。
    あの神社の名とお名前が合致していることはただの奇遇では済まれない深い意味を考察できます。

  • #3

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:14)

    (一) 当時の藩主第十一代綱條は若年ながら、当代の碩学佐藤一斎の愛弟子として、すでに学問において一家をなし、一斎不滅の名著「言志録」の初版本を刊行し、世道人心の振起に貢献せんとした程の人物であったから、福知山士民の頽廃を痛嘆し、これが対策に腐心して、種々画策する中で、文政七年、城南の小丘を開平して一社を設け、この地(現在の岡ノ町西山ストア)に藩祖の神霊を遷して、朝暉神社と号した。これが朝暉神社の発端である。

  • #4

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:15)

    (二) 明治四年、廃藩置県に依り、朽木氏二百年の支配は幕を閉じ、最後の藩主朽木為綱は同年朝命により、一たん東京へ移住したが、翌五年、二十八歳の若さで隠居して、八月福知山へ帰り、堀村下ノ地に住居を構えた。土着帰農の志を果すためである。
     為綱は堀村住居に移るに際して、岡ノ段の朝暉神社を自らの手で撤収した。その際神社の附属諸施設はすべて民間に払下げられた。現在一宮神社に残る能舞台はその一例である。
     既に領主の地位を失った以上、朝暉神社は朽木家の私的な存在に過ぎぬという、為綱の謙虚に過ぎる心情もさることながら、世の中や人の心の移り変るに従って、神社が追々荒廃することも予想し、それに耐え切れなかったとも思われる。朝暉神社は堀村の朽木屋敷内に規模を縮少して再建され、為綱を中心にゆかりの者達によって年々祭典を執行し、明治十年為綱再度東上の後も旧藩士族有志の手で、保護崇拝されていた。

  • #5

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:16)

    (三) 明治十二年の頃から福知山市街地在住の有志中から朝暉神社再建の声が挙った。
    追々賛同者を結集した結果、明治十三年左の歎願書が在京の旧藩主朽木為綱宛に呈出された。
     在京の旧藩主朽木為綱がこの嘆願書に痛く喜悦したのは言うまでもない。神社の移転を快諾した上金百五十円を寄進し、併せて堀村住居附属の土地一反一畝を奉納して、神社の隆盛を祈った。
     明治十四年四月二十二日、仮殿御霊神社から、守護の行列と共に御鳥船が、旧城山上に着御になると、待もうけた当日の祭主、副祭主を勤める神官五人か定めの席に着き、壮重厳粛な祭式が進行する。やがて旧藩大参事、清水安左術門が旧藩主に代って参拝した。

  • #6

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:17)

    (四) 明治三十年以降、福知山は飛躍的発展期を迎え、人口は十年毎に倍増し、商業大いに栄え山陰の大阪なとと呼はれるようになると、人情も一変して軽薄となり、城下町の風は薄れ、古城址も破壊され、朝暉神社もその輝きを失ったことはすでに述べたが、大正の時代に入ると、日本全体が漁夫の利を占めて、成金風となり、資本主義も木格化し、都市化が進む中で、固有の共同体の破壊が進んだ。

  • #7

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:17)

    (五)大正期の風潮は朝暉会にも影響を与え、年一回の総会も老人達慰安の懇親会の姿と変った。かつて破衣昂然として既往を語り、前途を論じた士族会は遠い昔の夢となった。
     朝暉神社の成立ちも、それが果した大きな役割りも知らぬ人達が多くなると、祭典も陳腐なものになり守護の趣意も薄れることになる。

  • #8

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:18)

    (六) それでも中島銻三郎氏を始め同時代の老人達には一種の気骨があって、昭和の初期は朝暉神社の神格が俄に失墜するようなことはなかったが、昭和十六年の中島氏の死と同時に日本が未曽有の大戦に突入すると、朝暉神社も朝暉会も、追々力を失い活動停止の状況に陥入った。
     昭和十八年、朝暉神社信徒総代会は自ら神社守護の責任を一切逃れる形で、これを朝暉会に移管するに至った。会の性格上、朝暉会はこれを受入れたが、明治十四年の再建の趣意を考え、神社が果した大きな役割り、その輝しい歴史を思うとき、このような形で有耶無耶に受渡されたことは、いかにも心残りではあるが、止むを得ない事情あってのことであろう。

  • #9

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:18)

    憶えば昭和十八年、朝暉神社信徒総代会が、神社守護の任を自ら逃れ、これを朝暉会の手に委ねた日、朝暉神社は明治十四年に市街地の鎮守として、永世町民共立の誓をもって再建された趣意を失ったのである。

  • #10

    津江武志 (土曜日, 21 11月 2020 19:23)

    暉山 平成二十一年四月二十六日 第五号

         二 福知山城下町

     そもそも城下町というものは、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦後、六万石を以って福知山に移った有馬氏が古城を改造して近代的な城郭を建設し、城下町を整備したことに始まるのであって、この有馬氏こそ福知山城下町初代城主であり、以後明治にいたるまで二百七十年余りを以って城下町の時代と呼ぶべきであろう。

     この間二百年余りにわたり福知山を支配し、城下町の充実発展に尽くしたのは朽木氏であるから福知山城下町は朽木氏の城下町と呼んでもよい。

     にもかかわらず、城下町を日常口にする市民にして朽木氏の名も知らず、城下町の実体も知らないのは残念という外ない。

     折角の福知山市史を持ちながら、このようなことでは、文化果てる町と他町村から、軽んじられても仕方あるまい。

     福知山では、口を開けば明智光秀ばかり。わずか二年の縁の光秀のために、二百年の歴史を空白にするのでは余りに馬鹿げた話というべきだ。

     丹波攻略の功により明智光秀は、織田信長から丹波一円の領主とされたのは、天正八年のことであり、同十年に本能寺の変で姿を消すのであり、その二年間も光秀は信長の有力武将として東奔西走席温まる間もなく、丹波統治のため亀山に拠点を設けるが、家族は本城坂本に置いたまま、あえなく没落するのである。

    故に 明智光秀と福知山の縁は、まことに浅いものである。

     江戸時代中期、福知山の常照寺の住職が御霊信仰から御霊会を始めるの際して、福知山の御霊(怨霊)として明智光秀を選んだ所から、福知山と明智光秀との関わりが生じたまでの事である。

     御霊信仰というのは、この世に恨みを残して死んだ著名な人物がたたりの神となって数々の災害を巻き起こすのでこれを厚く供養すれば、善神に変わって世の災害を防止してくれるという古くからの信仰で、全国に御霊神社の数は多い。

     たまたま福知山の場合、明智が御霊神に選ばれたというだけの話である。世に明智を祭る神社が存在しないところから、福知山の御霊神社は有名になり、これを利用して一旗あげようというのが、福知山明智光秀騒ぎというべきか。因みに光秀に関する確実な資料は殆どないといってもよい。

  • #11

    今井一光 (日曜日, 22 11月 2020 09:09)

    津江武志様
    このほどは私の無知なる部分、朝暉神社の何たるかそして福知山にとっての
    真の歴史について切なるお気持ちを御記しいただきありがとうございました。
    大河ドラマに採用されたことによって地元の皆さんはじめ観光関係の集客を期待
    されて本当の福知山の歴史が蔑ろにされて、それに対して訝しく思う方々がいらっしゃることを痛切に感じました。
    御霊神社もしかり、福知山-明智の段となると必ず紹介されていますね。
    当地相良の皆さんもついつい老中となって失脚した田沼意次偏重のきらいがあって
    オンリーワンとして祭り上げられる姿を見ていますので、そのお気持ちがわかります。
    どうかこれからも地元の真の歴史の掲揚再建に御注力されてご活躍されることを切に願います。ありがとうございました。

  • #12

    津江武志 (日曜日, 22 11月 2020 12:38)

    突然の意味不明なコメントで失礼いたしました。
    朝暉神社を取り上げていただき、あまりのうれしさにあれもこれも転記してしまいました。すいませんでした。上記文は地元の歴史研究家で福知山市史の編さんをされた根本先生の記された文です。大河ドラマの影響もあって街は明智でいっぱいです。集客を目的とした詐称やねつ造は歴史を冒涜するもので気持ちわるい毎日です。
     メルアドを公開されているようですね。さしつかえなければのちほどそちらで。