いよいよ外に向かいたい「閦」福知山城釣鐘門 狭間

昨日はご門徒さまご自宅でさらっと正信偈。

今年初めてのお勤めのご依頼でした。

その後の雑談で、今年は「家族一同風邪をひいての寝正月」と聞かされました。

そういえば皆さん鼻声のうえ咳きこんでいたような・・・。

一瞬硬直させられましたが「インフルでなくて良かった・・・」などとそれを確認し、平静を装って早々に退散させていただきました。

何せ私は風邪で寝込んでいる間はありません。

風邪そのものの苦しみを味わいたくないのは当然ですがこれからピンピン元気にしていないと仕事にも関わります。

法事をパスするというのはやはり意識として大問題ですが今年のテーマとして腹積もりしている難題も多く抱えています。

 

よって帰宅後は外出後の風邪予防の作法を念入りに行ってから、緑茶を浴びるように飲みました。がぶがぶです。

勿論、急須で入れたお茶で、ペットボトル茶の邪道ではありませんよ。ただただ新鮮で濃い緑茶が搾られる茶カテキンの力を借りようというものです。

そのために昼間はトイレに行く回数がひどく増えました。

 

ベッドボトルでない急須から出す緑茶ほど健康にいいものはないのですが(科学的根拠アリ)、世の中の流れというものはその逆です。

緑茶という強力かつ身近な健康飲料を捨て置く手はないのにまったく勿体ないことです。

「知らなかった」では後の祭りでしょうね。子孫にも伝えて行かなくてはならないのに・・・

 

さて、漢字の「門構え」について。

上記の中だけでもその「門」で構成される文字が結構に出てきました。

「ご門徒、聞かされ、関わる、間、問題・・」で普通に身近な「門」に関わる文字たちでした。

 

「門」とはいわば一つの結界ですが私はその中に居ることを否定し「外に出る」ことを主に皆さんに勧めていることは拙ブログでも何度か記しています。

それは「家」とは「癒え」を得る場所ではありますが、そちらに居心地の良さを求め続け、長きに籠っていたりすれば「病気になる」ということです。

 

たとえば私でいえば「家(寺)に居るから住職」、よって「そこに居ろ」というのは病気になれというのと同じです。

この「病気になる」とは・・・「健康を保ち憎い」ということですがこれは私が多数の方たちの「おみおくり」をしていてこれまで感じたことです。

それは確定的であって嘘や過大なものではありません。

よってもっとキツイ言葉で言えば「家に居れば死ぬ」です。

 

仏教でいえばそもそもその「門を出る」ことがその教えの始まり(四門出游)でって、それは気づき・・・覚り・・に不可欠であり当然であると示唆しています。

「門」を出て人の「間」に身を投じ、「問」い、「聞」いて「関」わっていくことがあるべき姿であると。

 

画像①②は松平忠房の時代(1649~69)に描かれた「福知山城下絵図」などを参考にして復元された「釣鐘門」。

明治時代までそちらにあったそう。櫓門の類でしょうが、時太鼓ではなく梵鐘が掛かっていたのでしょうか。時鐘(またはこちら)ですね。

こちらの門は東側を向いていますが、宝篋印塔各部材が石垣に使用されているこの城郭にあって「阿閦(あしゅく)仏」を思い出しました。

この仏さんは以前ブログで記していますがこの「閦」という文字は門構えの文字多数ある中、私は経典(阿弥陀経)の中か宝篋印塔の「東方」の意に馴染みが深いのですがよく見ると「門」の中に「人」がたくさん・・・

 

③④は壁に設けられた「狭間」。

こちらも武器を発する「門」ではありますが、それは「籠りっきり」・・・籠城を意味します。

籠城とはまま「時間の問題」となります。