掛川西郷構江再訪 戸塚忠春と於国 田沼と新貨幣

朝10時頃の外気と室内の気温差は3~5℃といった感じ・・・

温かなお日和とはいえ本堂は寒いので「上着やマフラーは脱がないで結構」とアナウンス。

みなさん、結構に我慢強く、通常よく言われる堂内マナーを守られますからね。

長い時間、寒い堂内に居続けることは体を壊すかも知れません。

 

まず北上はありえないところですが南方海洋上には結構強めの台風28号がいて、この寒気と水温にブロックされてるが如く彼は緯度を維持しながら西に移動しています。

台風の出現とその日本への襲来の条件が海水温次第ということがよくわかりますね。

このまま気温が上がり続ければ台風の頻発に海水面の上昇は必至。人類は協調してそれにストップをかけなくてはならないのですが・・・現状「自分で自分のクビを絞めている様」。

 

昨晩のNHK番組「首都直下地震」の同時多発火災も・・・怖すぎます。「群衆雪崩」など見ていると、都心など人の多い場所に居なくて良かったとつくづく感じます。 

墓場歩きに片足を突っ込んでいる私には「生きた人間」を踏みつけながら歩くような群集心理に流される確率は少ないはずです。

 

またその番組では「地震洪水」について触れていました。

まさにそれは地震によって堤防が壊されて水が周囲に溢れ出すことですね。

ゼロメートル地帯に住まわれる人たちはさらに余計な心配をしなくてはならないのでしょう。

低地ではありませんが先日、掛川西郷の構江あたりを久しぶりにブラつく機会を得ました。平らかな地形に小さい河川が入り組む箇所です。

 

西郷については西郷局生誕地で、構江観音寺址でブログにて記しています。

この辺りは掛川市街からそう遠い場所ではなく、ことのついでにひょいと立ち寄れる場所でもあります。

特に気持ちとしては観音寺址の墓石群に気持ちが動きますね。

前回ブログでは掲示板を画像アップするのみでその名について記さなかった西郷局の父、戸塚忠春と西郷の従姉妹、於国の墓について。

於国の「於」は以前記した通り。

 

時間を経て見て結構に手が入っていたような。

①②が先日の画像で③が以前の様子です。

石塔の傾斜が修正されて標識が新調されていました。

気になるところは五輪塔を墓、宝篋印塔を慰霊碑として案内していたところ。

何れかの混同があったのでしょう。同じ場所にあってその例を見たことがありません。

また、現状宝篋印塔の宝珠はどちらかの五輪塔のそれを添えたもので本来の物ではないでしょうね。

ところが以前は無かった相輪残欠が足元に立てかけてありました。

 

廃寺墓塔の維持は大変です。これらは地元の人たちの力によるものでしょうね。

 

例の宝塔手前の石塔の中に、一石五輪塔と宝篋印塔の残欠らしき石塔がありましたが、おそらくこれらも戸塚家一統のものでしょうね。

 

構江橋からの3カットですが、よくよくこの字面と睨めっこすれば、一言で堤防を表現しているのか・・・と思ったのでした。

近くに墓地の上は平塚古墳という単立の丘ですが、その「平」こそこの辺りの立地が平らかであることを表しているのかと。

ということで「構江」は歴史的に倉真川の氾濫洪水についてその対策を講じたあとの地名であると勝手ながら納得して帰ってきた次第です。

 

最後の画像が12/8の藤田先生の講演会案内付きのチラシ「田沼の改革―新しい貨幣の発行」。

尚、戸塚忠春と於国については上記構江観音堂址ブログ掲載の看板をどうぞ。

 

コメントをお書きください

コメント: 1
  • #1

    野村庄右衞門幸正 (土曜日, 07 12月 2019)

    この写真の墓碑群の中に石田家のお墓があるそうです。で、そこには北町奉行をやっていた石谷十蔵貞清の系統の三人の当主が埋葬されているそうです。