駿府 ビルの谷間の宝台院 お愛さん  西郷局

この手の墓石、石塔というもの、その所在地の例としてはなかなか珍しい場所にあります。

施主縁者の思いがなみなみならぬものであったことが推察されましょう。

権威者はその近親縁者が亡くなるとその菩提を弔うため、京都あたりから僧を招聘して寺院を一から建てることはしばしばありましたが、大抵は人里離れた山の中というのが定番でしょう。

ところがこの寺院、当時のこの地がそれほどの繁華街とは思えませんが、主の住まう城からも、東海道からもほど近い場所にあります。


十五代德川慶喜が隠居所として入った「浮月桜」から「ちょいと先」といったところ、その名を「金米山宝台院龍泉寺」と言います(場所はここ)。

今では殆ど「静岡駅周辺」レベル、浮月桜と同様、国道1号の喧騒からもほど近い場所。利便性という点からいえば一等地で以前からこの境内を利用した地区のイベントが行われる場所でもあるそうです。


この「宝台院」とは家康の側室で二代秀忠や、井伊直政の婿殿で関ヶ原で福島と先陣争いをした忠吉の母親の「お愛の方」=「西郷局」です。

その名の通り三河西郷家から築山殿亡きあとの家康に嫁入りした人です。といっても家康は初婚嫌い?の様、実績のある(子供を産んでいる)女性でした。ということは前夫が居たわけですが、この夫が西郷義勝、武田方先方秋山虎繁が三河に侵攻した際に討死しています。美しいとの評判だったそうですから家康がうまいこと引っ張ってきたというところでしょうか。


もともと「お愛」さんの出身は戸塚家で、生れは遠州佐野郡西郷荘、そちらから三河へ輿入れ、そして家康の浜松―駿府に渡ったという波乱の時代に生きた人です。佐野の戸塚家は今川義元時代は今川家臣団の一画、大元は横地・勝間田の流れといいます。

戸塚家も当主が討死していますが、当時は今川家中の家康としては同僚、深い関わりがあったのかも知れず、家康の気持ち的にも「お愛」に向かいたくなる何かがあったのかも知れません。


戸塚家出自のお愛さんが横地・勝間田の血縁であるとすると、其の血脈は以来徳川家に引き継がれているということになりますね。


境内に入ってスグの場所に凛々しく立つその姿は大きく、外の道路からもその背の高い九輪の宝塔が目に飛び込んできます。

江戸初期のものでしょうから後部の破損は、駿河の国を度々襲った地震の被害かと思われます。石仏、石塔の損傷は地震か廃仏毀釈による暴徒によるもののどちらかです。


尚、十五代慶喜は浮月桜に入る前、駿河上陸直後は一旦こちらの宝台院に蟄居していました。