太田川の作った扇状地 本庄山砦の七人の侍 

太田川といえば遠州森町の北部の山々を水源とし駿河湾の福田(ふくで)の港に流れ込む河川で、この西の近くを流れる大河、天竜川とはあきらかに別系統です。

 

ブログではこの川沿いの各遺構についてぼちぼち記しています。何と言っても信玄の南下、三方原合戦の前哨戦である木原畷の戦いと三ケ野の大日堂あたりが主たるところ

特にこの川が作ったであろう湿原を元に耕作された田園風景が今も広がる場所です。

興味深いのはこの川の南下とあわせて今もその街道の名に「信州街道」とあることでしょうか。

 

川は天然の要害でいわゆる「堀」として機能することは当たり前のことですが、家康が岡崎から遠州に進出して浜松に城を構える前、天竜を跨いで太田川との間の見付(磐田)に一旦は築城を開始したものの、「ちょっと待てよ・・・」とばかりに今川からの反攻があった際のリスク(背水の陣)を考慮して、天竜川の西岸(浜松)に決定したという経緯がありました。

それが今川以後の駿遠―武田の南下―に対するうえに効果的選択となって、もしやあのまま見付(城之崎城)を居城としていたならば、おそらく家康の首は無かったかもしれません。

 

それほどに城塞の位置の選定と縄張りは重要課題でした。

基本的には「水の手の利害ともに生かす」ということですね。よって居館は間違っても平らかな場所にはなく周囲を見渡せる丘の上にあります。よって水難からは逃れられかつ、水の手は近く、想定する敵方の攻略を阻むという地がベストでした。

考えれば現代の我々が住まいを選択するうえで共通部分がありますね。

 

その太田川を森方面に上っていくとその川の東側、川がS字に少し蛇行する辺りにさほど高くはない単独の段丘があります。

そちらが本庄山砦です(場所はここ)。

川の蛇行というものはそもそも50年100年レベルで相当に姿を変えますので一概には言えませんがそれらを微妙に勘案し、防衛ラインをより有意義に使った城塞ではなかったでしょうか。

 

現状は春岡神社と極楽寺という曹洞宗のお寺がその山の南裾に鎮座しています。

極楽寺の山号は安養山。安養―あんにょう―とは「浄土」の意味ですので、まさにお寺の名前からして御本尊は阿弥陀さんでしょう。

次男にお参りしてこいといって境内で待っていると、「坐像の如来さんだった」と。阿弥陀さんを御本尊にする禅寺もかなりありますね。

ちなみにこのお寺よりさらに南に行った場所にも同じ山号の「安養山」を冠にするお寺がありました。

 

この辺りの地名は「宇刈」と言ってこの砦の主、村松武大夫という地侍?はじめとする「七人衆」の名が当地に残っています。

極楽寺の墓地をサラっと見回せばそれらを御先祖とするのではないかと思う名がちらほら。

徳川泰平の時代に入り、彼らは帰農して庄屋や大農家としてあったとのこと。

 

信長と武田家の同盟の主導者でいて皮肉にも岩村城で信長に捉えられて磔にされた秋山虎繁(伯耆守晴近)が永禄十一年(1568)、久能城攻めに遠州に入っています。

「鼻欠淵の戦い」といいますが、この太田川周辺の地にそのような地名があったのでしょうか。

 

当地の国人、土豪衆は例に漏れず旧来の今川系から二者択一、徳川か武田への合流を決定しなくてはなりませんでしたが、こちら本庄山砦にあった「宇刈七騎」は徳川方にあって、久野城を囲んだ秋山を背後から挟撃しようとする動きを見せたという記述が残ります。そのせいで秋山率いる兵3600は見付方面に引いたそうです。

 

ちなみにその七人の侍とは・・・

①下村(袋井市)西尾与惣②一色村(袋井市)富永藤兵衛

③三沢村(袋井市)長谷川平兵衛④馬ヶ谷村(袋井市)内藤三右衛門⑤中村(袋井市)村松三郎兵衛⑥大日(袋井市)小野勘右衛門

⑦市場村(袋井市)村松新五右衛門

七つの村の有力者(代表土豪)7名でした。

 

航空画像では村松屋敷址(本曲輪)と推測される頂上付近の削平地が茶畑と化して白く浮き上がっています。

他の削平された段丘は諸曲輪と推測、北側の断崖前に土塁らしき遺構はありますが・・・竹藪と笹だけの様。

 

最近発掘調査された横穴式墳墓が神社北側下部にありました。

開けた段丘の横穴墳墓というのも定番ですし、戦国期の墳墓の上の砦というのも定番でした。

 

週明けはジャンバーが邪魔になるほどの好天。

境内の紅白はこの日に開花しました。