古戦場木原畷は許禰(こね)神社の北の田んぼ

畷(なわて)とは田圃の畦道のこと。「畷」と呼ばれる古戦場では「四条畷の戦い」の方のが耳に馴染んでいますがこちらは袋井市の畷。

「木原畷」という今でも当時の面影を残す古戦場があります。

 

元亀三年(1572)、この年の12月の三方ヶ原で武田信玄にぼろぼろの大敗を喫した家康ですが、それより2か月程度前のこと、布陣する武田軍に名刺代わりとばかりに徳川方、家康の「代理人これあり」と内藤信成がこちらの田園地帯に繰り出し、早々に退散させられるハメとなったのがこの木原畷(場所はこの辺り)の戦いです。

 

 犬居城、飯田城を落として久野城を包囲した武田軍はあの湿地帯に浮かぶ久野城と久野宗能(むねよし)の堅守をあしらうように無理せず放置して東海道を目指します。

天竜川渡河目前の場となる現袋井市の木原・西島の平原に布陣しました。

 

 歴然たるどうにもならないような兵力差、武田25000に対して徳川総勢8000のうちの斥候の如き内藤勢、多少のちょっかいを出しては「逃げるが勝ち」とばかりに遁走したことでしょう。

 

 その後武田軍は二俣城を落として三方ケ原台地に上がって徳川軍の引き出しに成功、家康の両軍対峙戦としては唯一の敗北戦いとなりました。 

 

 家康は、慶長五年(1600)大垣方面(関ヶ原)へと向かう東海道途上、かつては木原権現と称された許禰(こね)神社を参拝し、雌雄を決する合戦の勝利を祈願したとのことです。

その際に家康が腰掛けたと伝わる石が神社入り口に。

「徳川家康公腰掛石」とあります。古戦場の標識もこちらの境内に設置されています。

 

こちらの神社の由来記からも太田川と原野谷川という大河に挟まれたデルタ地帯で河川の氾濫に苦しんだ地であったことが窺えます。

そもそものこの神社の建立がその手の天変地異からの守護だったわけですね。

 

最後の画像が夏に伺った時の畷の様子。

神社北側に住宅が点在しますがその向こうは田圃と畦で、さらに奥には東西に走る国道1号線バイパスが一直線に走っています。

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コメント: 2
  • #1

    ぴよこたん (水曜日, 29 10月 2014 16:52)

    先日何気なく通りすがりにふと目を奪われタイムスリップしたような赴きには驚きました。
    もともとこの袋井~磐田~浜松は戦国時代は激戦区でしたのでとても興味深く、歴史についての参考になる事があれば現地に訪れ、戦って命を落とされた方のご冥福をお祈りしたりします。
    現代社会のありがたみを感じつつ、戦国時代のロマンを膨らませています。

  • #2

    今井一光 (水曜日, 29 10月 2014 20:19)

    ありがとうございます。
    私もあの風景は何時までも残っていて欲しいと思います。
    さて、察するに当地の戦国ファンとお見受けしますが、今度袋井・掛川市教育委員会共催で「馬伏塚城と高天神城展」があります。楽しい企画で満足のいくものと思います。
    詳細は2014.10/30のブログにて。