仙千代の処刑と墓② そして顕彰碑の誤り 

奥平家といえば関ケ原にて松尾山の小早川秀秋の監視役、そして獅子奮迅の戦いをした奥平貞治がいましたね。

家康にとってはその戦働きとして第一級の家柄だったというわけですね。

 

昨日の続き

仙千代の墓です。

人質で甲州に連れていかれた仙千代が三河に攻め入る甲州勢とともに再び帰郷するや無残にも処刑されてしまったのでした。これは戦国の倣いとして許容されるべきですが、命令を下したのは勿論武田勝頼、処刑をしたのは秋山虎繁と海道南下を別動して合流してきた山県昌景といいます。

 

昨日の如く奥平家を大河ドラマにしたら勝頼と昌景は大層な悪役になるでしょう。

当時の処刑のオーソドックスは磔のうえ斬首、そして首は「三尺高い木の上」のパターンか街道筋の「鋸引き」のどちらかです。

 

奥平家関連の文書には「切腹」との伝承で統一されているようですがそれは死者への気遣いでしょう。当家ご先祖様の死ですからね。

しかし切腹というものはそもそも「名誉ある死」ですのでこの場合武田勝頼が徳川家康に寝返った奥平貞能の出した人質の扱いに名誉などを与えるはずがありません。

勝頼が怒り狂っての処断でしょうが小笠原の高天神開城(第一次高天神戦)の大盤振る舞いの勝頼とは全く異にしますね。

 

仙千代の墓は鳳来山参道のまさに入り口にありますがその先には以前記した伝太田備中守の石塔があります(場所はこちら)。

 

以前はこちらには田口鉄道の鳳来寺駅ができるころに移動されているようですが処刑地として残る字名は「門屋の金剛堂」とあり場所的にはこの辺りで間違いないところ。

鳳来山参道入口ですので、お参りに来て仙千代の首を鋸引きさせられるのはたまったものではないですね。

 

どちらにしろ古くない墓石で顕彰的意味合いが強いものがありますが、墓石の隅に別に「大正三年一月建之」の顕彰碑が建てられています。

 

文中に奥平貞能の受領名が出てきます。

それを記すことは一つの名誉であってやはりそれを記す方もなかなかカッコよく感じますがなんともお寒いことに間違いを記しています。

彼は「美作守」(みまさか)が正式受領名ではありますが石碑に記されているのは「美濃守」です。

どうしても長篠周辺で名のある武将というと馬場信春がいて通称で「馬場美濃」と呼ばれるくらいに「美濃」は耳に馴染んでいますのでついついうっかり「美濃守」としてしまったのでしょうね。

どうでもイイといえばそうですが、それを記した方がもしその誤りを知ったら恥ずかしくて「穴があったら入りたい」気持ちになったかも知れません。まぁ他人様の事はさておいて、私自身の方もお粗末ですからね。

 

「奥平仙丸君遺蹟記念碑文

奥平仙丸君美濃守貞能末子九八郎信昌弟天正元年武田勝頼

在黒瀬徴質於貞能貞能不能拒會貞能夫人病而難往評議未決

此時仙丸君進曰兄把槍在戦場児幼而不耐其任今為母兄出而

為質或斉戦功請児往矣遂遺之後貞能納款於徳川氏勝頼怒斬

仙丸君於鳳来寺金剛童子祉側干九月二十一日也仙丸君年

甫十四傅黒屋重吉自刃乳母阿和女亦殉有人葬遺骸干額田郡

柿平山中後之遊仙寺是也又建小石祠千鳳来寺山以為仙丸君

遺蹟春風秋雨既経三百六十餘年茲慨小祠頽圮事蹟欲湮滅改

造石祠新樹碑明事歴以吊永蟄毅魂云」

 

人質は大抵は奥方が行くというのがならいでしたが何故に奥方ではなく仙千代が行ったかということが記されています。

貞能の夫人は病気だったのですね。

よって10歳の仙千代が人質として甲州に向かうのですが、昨日私が記した如くの「祝事」として子をだますどころか、仙千代自身が「それなら」と切り出したとあります。

「兄は槍をとって戦うことができるが幼い自分にはできないので私が行きます・・・」と申し出たとあります。

 

亡き人を讃える顕彰碑にありがちな敬意美辞でしょう。

古い祠は石塔の後ろ側の祠の中に納められているようです。