ゲリラ戦、 お仕置きは「三尺高い木の上」

極端なことを言えば長々と「名乗り」をあげての一騎打ち、一族郎党を引き連れて戦場に赴いて家長騎馬武者を中心にした5人~10人グループ単位の集合体どうしの戦闘が主流だったのは平安から鎌倉期ですね。

時代の変遷で戦争の仕方も戦いの意義も室町初期よりさらに変化を遂げてきました

完膚無きまでに相手をねじ伏せて自らが統一し決着をつけるという戦いです。

意に反する者は滅亡の道に追い込む、勝組と負組、黒白ハッキリさせるというものですね。

 

 平安・鎌倉期は戦いにも儀礼が重んじられて親様が負けたら殆ど「勝負あり」と結論を出して、無駄な戦いを続けずに、とりあえず郎党は敗走して次に備えるという、ある意味効率的かつのんびりした戦いだったと思います。

 ちなみにその後、「生きることよりも死すること」に価値感を抱く風潮が広がって「武士道」思想を形成していきますね。

 生きる事より死ぬことが何より「美しく素晴らしい」こと、第一義に・・・・。 

この思想は昭和に入っての大戦の「負け」を見つめてみれば

「無駄死」とわかっていても「死することこそ忠義である」という考え方を国民に植え付けた当時の戦争遂行国家の主体的思想に繋がっていったことは周知のことです。

惨かろうが、悲しかろうが命の終わり、死というものを「桜が散る」という人の琴線に触れるような美意識に譬えました。 

 

 室町中期、戦国期に入って戦争というものが職業軍人による役割分担と組織化したシステムに変わりました。

それは、だらだら長々と戦闘を繰り返してお互いが疲弊した応仁の乱以降、守護が戦国大名化してそれぞれが鎬(しのぎ)を削るようになってからのことです。

昔ながらの作法、「名乗り合い」などは無くなり、戦闘の流儀は一変したのでした。

 まずは足軽雑兵の汚い野次と罵り合い(口だけ・・・)から始まって、石の投げ合い、弓の打ち合いです。

平地対山上の砦等の落差があれば上の守備側は攻め手に対して石つぶては勿論、糞尿桶から熱湯まで相手にダメージを与えるものは何でも放り投げました。勿論戦闘前に万全の準備を整えていることは言うまでもありません。

また、白兵戦では上記の名刺代わりの口での罵り合いで思いきりエキサイトしたところにようやく大軍同士で乱れてぶつかり合って勝負を決定するという戦争に変わって行きます。

 そのことは鉄砲伝来(1543)以降、より顕著になっていきます。

瞬時に決着してしまうハイテク兵器を前にしてそれまでの戦争の流儀は通用しません。名乗りなどあげたら目立って的になってしまいます。いつしか名乗ることが嘲笑の的となってしまいました。昔は目立って雄壮を誇示しましたが鉄砲が出てからは目立てばスグに殺されるということです。

 

 ある意味終戦を決定づけた人類初の2個の原爆投下も「問答無用」の戦闘の顕著なものであると言えます。

その傾向はまさに現代においてより進化した戦争の姿です。

自分が死んだことさえも知らないうちに一瞬のうちにこの世から消えてしまうものになっています。

 

昨日のブログで記しました堀川城2000人の住民を纏めて籠城という選択をした籠城武将にケチをつけましたが、ゲリラ戦という選択肢は弱者が強者に向かう場合に卑怯であろうが信義に反しようが非常に有効な戦法であって、これは現代にも通じるものがあります。おカネもかけずに少人数で戦いを続けられるわけですから。

 

 自爆テロとか9.11の航空機乗っ取りによる自爆攻撃は現代の都市型ゲリラの最たるものでしょう。

正面切って対峙して一斉に掛かりあう大軍同士の戦闘様では絶対にかなわない、戦う前から殲滅されることが明らかな場合はその戦法を使いますね。

 

 石山本願寺を退去した本願寺勢が信長勢を紀伊に迎え撃つにあたって採用した戦法は罠と待ち伏せのゲリラ戦です。

待ち伏せして適当に成果をあげたら逃げる。夜間休憩中に襲撃してスグ逃げる等々ゲリラ戦は特に有効です。本隊は表さずこそこそとじわじわ長期に渡って憎らしく戦いを進めることに意義があるのです。大軍は機動力と臨機に動く小編成の組織に度々悩まされて精神的にも疲れ果て、怒りも心頭となります。

  しかし後が怖いですね。長島城(またはこちら)もそうでしたが捕まったり降伏したあと容赦なく徹底的に殲滅されるという事案、結構ありますから。

堀川城の悲劇はあの包囲されやすい低地の砦を本拠にしたゲリラ戦の失敗と言った方がいいかもしれませんね。立地の問題であったと。

また、家康がボロ負けした三方原の武田信玄戦、浜松「犀が崖の不意打ち」や、もし「ブックメーカー」があったとしたら今川50-1織田のオッズくらいの力の差がある中に、信長が籠城では無く義元の油断を精鋭のみでついた桶狭間も「ゲリラ戦」です。

 

 さて斬首獄門は罪人の死刑のことですが、しっかりした形で刑罰に取り入れられたのは江戸時代になってからです。

しかしずっとそれ以前からその「習慣」があったことは言うまでもありませんし、世界的にみても現在先進国と言われている国々において、極めてオーソドックスな処刑方法です。 

 今では西側諸国ではその一見した残虐性から廃止されていますが一部イスラム圏では現代においてもそれが執行されている様です。

案外被刑者にとっては一瞬で無痛とのことですから、痛みを感ずる時間が持続する他の方法より比較的ラクなのかも知れません。

 

 「三尺高い木の上」とは「獄門台」のことです。その晒された首で見下ろしてやるという意ですが何ともシャレた言い方ですね。粋を感じてしまうが故にそんな台詞を吐きたくもなってしまいます。もっとも三尺(90cm)はそう高い場所では無いですが・・・。

 

 獄門台は平安期から京の「獄」の門前に置かれていたためそう呼ばれるようになったそうです。地上約90cmの高さの柱を立てて長釘を打ち付けた板切れを渡して首を置いて晒します。

板から突き出た釘に首を差して土で固定したそうです。

 斬首の前には市中引き回しというイベントがあって世間に広範に知らせます。

要は為政者、勝ち組の広告宣伝を兼ねた「興行」ですね。

見せしめの要素も勿論あります。

 信長を狙撃して捕まった杉谷善十坊も、家康を怒らせた中間(ちゅうげん)大賀弥四郎も「鋸挽き」という強烈に残酷な刑でしたが、こちらは特に見せしめ効果満点だったでしょう。

現代の様に娯楽の少ない時代にあって引き回しの街道筋と刑場には見物人が大挙したといいますので、「処刑」は今でいう「祭り」の様な一大イベントと化していたかもしれません。

人の命の価値が殆どゼロの時代でした。

 

画像は何故か遠州浜松犀が崖にある鼠小僧次郎吉の墓。

ここにあること自体あり得ないのであまり有名ではありませんね。

ホンモノは削り取られて無くなってしまって幾度も建て直されているでしょう。

 庶民に好感を抱かせた講釈が面白おかしく読み物や演劇として仕上げられて人気が出た人ですので彼が縁を切った縁者がたまたまこの地にいてこの墓を作ったのでしょう。

 次郎吉は捕縛されたあと市中引き回しのうえ江戸小塚原刑場で斬首、「三尺高い木の上」での見せしめにあいなりました。

火付や殺人を犯していなくとも斬首になったというのは盗みに入った場所が大名屋敷ばかりだったからだといいます。

 

 明治以降になっても斬首獄門は引き続き刑罰として残っていましたが1881年を最後に廃止されています。

考えてみれば明治初頭まで普通に晒し首があったということです。

現代人にあって斬首など考えられない行為となっていますが

言ってみれば庶民の僅かな楽しみの一つであったのかも知れません。 

明治まで残った処刑方法ですので画像も色々残っています。

有名なものとしては明治維新の勝ち組同士の仲間割れで維新政府と袂を分かれた佐賀藩士江藤新平の首ですね。

ちゃんと台座も写っています。また斬首刑廃止直前(明治十二年)の女性被告人「高橋お伝」と代々の斬首執行人で「山田浅右衛門」の逸話などはかなりリアルです。内容については各各お調べを。

日本の歴史も今思うに「極めて残虐」という世界にいた時間の方が遥かに長いのです。 

 

見たくない方はパスしてください。

江藤新平さんの画像です。

 

ウイキペディアより(画像はコレ) 。