長島一向一揆 願證寺

明応六1497年に蓮如上人の六男、蓮淳が長島の願證寺(場所はこの辺り)に迎えられます。(旧願證寺は河川改修工事により長良川の底です)

長島は木曽川・長良川・揖斐川の三川が海に流れ込む場所で、支流も網状に流れて独立した地形を形成、多くの中島・中州を作りました。

水運が発達する一方、戦国期においてはその環境は大堀の如くに機能して外敵の侵攻を阻み三河、尾張、美濃に布教を広げてこれから伊勢地方への拡大を目指した真宗教壇のの一大拠点となりました。

 

 蓮淳が来る以前は北畠家の家臣伊藤重晴という人がこの地を治めていましたがその圧政により農民は願證寺を中心にまとまって1500年初頭には伊藤氏を廃除、寺を中心とした農民の国が出来上がります。

支配的武士団の排除は一部加賀の一向一揆で起こったことと同様です。

 

願證寺の勢力が拡大するとその名声も高まり、当時各地動乱で落延びた武士たちも「自由な風潮」を頼って集まって、そして取り込まれ、ますます長島地域の勢力は大きくなりました。

特に「売出し中」の信長がいよいよ台頭してくると織田勢に反旗を翻した武士、服部左京亮が加わってから石橋義忠、美濃を信長に追われた斉藤龍興なども合流し、いよいよ信長の目の上のタンコブとなっていきました。

信長は本腰をあげて攻略を試みますが長島城とその支城・砦群の攻略に手を焼き、三度に渡っての侵攻となりました。

 

①第一次長島攻め

永禄八1565年から信長は滝川一益とともに可愛がっていた弟の織田信興(織田信秀の七男)を長島に侵攻させました。信興は当初の戦闘に勝利し城、砦を築いて長島攻めの橋頭保としていましたが元亀元1570年長島の一揆勢に包囲されたのち家臣もろとも自害させられるという結果になってしまいました。

信長としては前代未聞の大恥を烏合の衆(少なくとも信長はそう思っていたでしょう)にかかされたという憤怒の思いが煮えたぎったと思います。滝川は桑名籠城で一歩も動けず、信長軍本体も浅井・朝倉・比叡山と対峙してどうにも支援が送れなかったことがその要因ですが、織田信興籠城六日目で落城しているそうです。

 

②第二次長島攻め

天正元1573年、信長の次の作戦は本城長島を直接攻めるのではなく、北伊勢地方から支城、砦を一つ一つ攻略していくというものでした。

ひと月ほどの戦いで北伊勢地方は平定したものの、大和・河内に反信長の火の手があがったためやはり長島城を攻めずに大垣城へ帰りました。

 

③第三次長島攻め

天正二1574年の長島攻めは信長は嫡男信忠と七万の兵力で自ら出陣、まさに怒りに任せてケリをつけようというものでした。

これまでの戦いで相当に懲りていた信長はこの地の水利を逆にとって志摩の九鬼水軍等、海賊その他無数の舟を動員させて島を取り囲み、外部からの動員、食糧の搬入を途絶えさせて兵糧攻めにしました。

3か月後には長島勢は降伏。その時の状況が世にいう長島の大量殺戮で我が真宗門徒が信長を「憎き信長、仏敵信長」と罵ってきた由縁となる事件があったのでした。

天下人とは思えぬ壮大な騙し討ち、「卑怯道」でした。

 

信長公記による

長島城は降伏を申し出、信長はそれを許した。

生き残った者たちは舟に乗り城から退散した。

出てきたところを織田の鉄砲隊により狙い撃ちにされ、多くは川中に落ち、大川は死者の血で真っ赤に染まった。

そして最期まで生き残っていた者たちは女子供も含め幾重にも柵を設けられた四方から火をかけられて生きながらに殺された。