破滅を招くより今は時節を待て 奥平貞勝

遠州は井伊谷の井伊直虎を描いた大河ドラマは切り口も斬新でそれが決まった時は唖然とさせられたことを覚えています。

地方の国衆レベルの「小名」に毛が生えたような豪族たちが、時代の流れというか、周辺絶大勢力に翻弄されて苦難を生き抜き「家」を繋いでいこうとするストーリー展開はなかなか面白いものがありました。

 

次回の大河ドラマは満を持したようにメジャー級の「明智光秀」の登場ですが、では戦国時代に限って私が勝手に「それならコレ」と思うものがあります。

今川義元でも伊勢宗瑞(北条早雲)でもありません。

太田道灌あたりも再検証すれば面白そうですが、関東のあのあたりの時代は混乱していすぎて分かりにくい部分がありますからね。

まぁいずれ私が生きている間にはそのうちのどちらかにもスポットが当てられるかもしれませんので期待していますが。

 

昨今、周辺見廻してみてこの「家」について追いかけたらかなりイケると思うのが三河「山家三方衆」です。

その三つの系統は色々と派生していますのでピントがブレてしまいますので一つに絞るとすれば奥平家。

奥平といえばあの井伊谷から西の新城・設楽原からさらに一山北方に超えた作出(亀山城)ですね。

 

井伊直虎のドラマでは「井伊谷三人衆」( ) なる猛者がいましたが、この三河山間の地域には「山家三方衆」という語があります。

それが長篠の菅沼、田峰の菅沼(      )、そして作手の奥平家。

どうもその「三人衆」や「三方衆」という呼び名の響きは「ただ者ではない」という雰囲気と恰好良さが漂いますね。

 

ざっと奥平氏の流れを記せば(ブログでは3度目か・・・)

 

奥平貞俊 に始まって    

→貞久→貞昌→貞勝→貞能→信昌→家昌・・・

                    です。

 

貞能の「貞」は「定」も併用されていたようで以前も記しました通り、より紛らわしいことこのうえなし(こちらも作出亀山)。

ただ「信昌」はわかりやすい。

「信」は信長の偏諱かいやそれは奥平家の創作で実は武田晴信(信玄)の偏諱だった・・・の疑惑の「信」が入っているからですね(改名前の名は貞昌)。

その疑惑こそがこの家の苦難を物語っています。

 

重ねて訪れる苦難と苦渋の選択そして苛烈な運命と絶妙の選択という物語がそこにあります。

物語するにはうってつけの好材料となるでしょうね。

これは三方衆他こちら奥三河の国衆も同様ですが、今考えると戦国時代でも指折り数える強大勢力、名家に囲まれた摩擦点であったということです。

今川、武田、織田、徳川のせめぎあいのド真ん中に細々と根を張っていたグループでした。

どうやって生き残るか・・・家を存続させるのか・・・主眼はただそれだけです。

そのために状況を見つつあっちについたりこっちについたり、日和見・卑怯などと言われながらも土地にしがみついて家を守っていった一所懸命の健気さがあったわけですね。

 

たとえば、奥平家でいえば元は今川配下に。

桶狭間以降の今川家低迷を見るや徳川に鞍替え。

そして武田の強大勢力に押されて武田方に。

再び掌を反して徳川にという具合です。

戦国期においてそれほどに主君をコロコロ変えるということは他に例を見ず、まず大抵は1度の裏切りだけで「不信」の烙印を押されて家臣に組み込むことは愚か成敗されることもありますからね。

 

ただし奥平の場合はどうしても強大勢力のぶつかり合う最大のポイントとなる重要地点に居て尚且つどうしても相手の力をバックとした調略に乗ることもやむを得なかったとという事情と背景が考慮されたかと思います。

 

その最大ポイントが「長篠城」ですね。

天正三年の長篠設楽原の武田家滅亡を決定づける合戦に誘導させる罠、織田徳川の網の中の主人公でもありました。

勿論相手は武田勝頼、彼の引き出し役ですね。

 

それ以前からのお話を。

永禄七年に貞能は家康の勧めで今川氏を離れ徳川麾下に入ります。

元亀元年1570には信長の越前金ケ崎攻めに姉川と転戦していますので織田徳川軍として遠征にまで参加するほどでした。

姉川では貞能軍は「手勢百余名で敵首九十一をあげる」大活躍だったといます。

 

ところがその一連の「志賀の陣」を尻目に武田方の遠州、三河の侵攻にウェイトがかかってきます。

これも「志賀の陣」信長包囲網の一環で大坂石山本願寺ほか長島一向一揆、延暦寺勢力との連携が推察されます。

 

秋山虎繁の三河侵攻によって早々に田峯城の菅沼貞吉と長篠城の菅沼正貞が武田方に降ってしまいます。

その勢力を先鋒に奥平の亀山城を制圧するという武田方の脅しもあって武田の調略(本領安堵と加増)に乗ったというワケですね。

徳川・武田の支援は難しい時で、そうせざるをえなかったのです。

結局は鶴の一声、長老貞勝の「破滅を招くより時節を待て」があって武田に降ったのでした。

 

制圧した遠地の領主が恭順の意を表明したとしても信用はしませんね。当時のならいとしてはまずは「人質」です。

 

若き頃の家康自身が今川の人質として駿府にあったことはあまりにも有名です。幼い人質を養育して家臣団に組み込まれていくことは当然の流れですが、その人質の本来の役目は本家の裏切りの抑止力ですね。

 

この場合でいえば武田を裏切って再び徳川に付くということを防止する役目です。

そこで貞能の二男の仙千代(十歳)が甲州に差し出されたのでした。

10歳の子に「何かあったら殺されるかも」などネガティブ情報を与えることはなく祝い事ととして送り出されることでしょうがその環境は同行する乳母や家臣の雰囲気から察せられるというもの。

戦国武将の家に生まれた二男三男の行く末として致し方なかったことはわかりますが親元を離れての新生活はあまりにも気の毒ですね。

 

仙千代はその三年後、父定能の家康への寝返りにより勝頼の激しい怒りをかって武田軍が長篠に向かう途中の鳳来山近くで処刑されています。