上州から三州へ 棄てて築く 奥平貞俊 川尻城

昨日午前は相良小学校高学年の本堂見学会がありました。

結構に気温が上がっている中、教育委員会の長谷川氏はいつもの殿様姿にての先導案内役。

「そこまでやるか」と唸らせましたのでちょいと顔を出してつまらない話の一言二言。

なぜか大晦日の鐘撞大会の話に誘導、すると「どうしてクリスマスじゃないの?」との強烈な切り返しに見舞われてしまいました。

 

その時咄嗟に大人げなくも「お前!!・・・」(心中「ジーザス!!」~なんてこったぁ)とつぶやいてしまったのですがいやはや日本の子供達の感覚「クリスマス主体」イベントの現状に溜息が出てしまいました。

子供は正直ですね。かないませんよキリストさんには・・・

 

同じ年代の子を持つ親として震撼させられる事件が続発しています。20代前半の男の子がブチキレの自暴自棄になっての「誰でも良かった」? の色々です。まぁその年代の子にのみおいての事とは限りませんが・・・オトナもそこここで無茶やらかしています。

 

突発的被害に遭われた方には大変気の毒な事ですが、私はどうしても加害者のその両親に一層の思いを抱いてしまいます。

そこに「親の責任」というものがあるのかないのかはわかりませんが子供を育てるということが如何に難しい事なのかを。

そしてその結果から導かれる懺悔と悔恨を推せばひどく痛々しく思います。

 

かといって親による児童の虐待という話も最近よく聞く話。

虐待をする親の年齢ときたら「殆ど子供」ですからね。

前述「ブチギレ 誰でも良かった」が家庭内の弱いところに向かっただけの話かも。

とにもかくにも「みんな病んでる」の感。

 

危機的状況なのに永田町のお偉いさんたちはまったく暢気なもので。

「参院定数増やします」議員さんを増やしてデカく徒党を組もうという腹でしょうが、少子化とかイジメ等、子供達の将来に関わる実務の件、進めて欲しいものです。

 

さて、山家三方衆(作手の奥平・長篠の菅沼・田峰の菅沼)の奥平家です。その出自は村上源氏、武蔵七党(以前片倉城にて)児玉家。

児玉奥平二郎太郎と称する人物の存在は上野国廿楽郡司で奥平という地に住したことから。

その奥三河の作手に奥平が名を成すまでには歴史の紆余曲折があります。

 

それは村上天皇第七皇子具平親王十一代赤松播磨守則景が頼朝について関東に下向してから始まります。

ちなみに史料から転記するとその人は頼朝の義弟北条義時の娘を妻にし家範をもうけ、そののち上野国廿楽郡司の畠山小幡右衛門尉政行の娘を妻に迎えて氏行が生まれます。

 

畠山小幡右衛門尉政行の子の太郎行綱の元、養われた氏行は児玉本庄左衛門尉家貞に婿入り畠山児玉両家を継いで上野国廿楽郡司の座に奥平姓を名のったことが始まり(長篠戦史第二分冊)。

その奥平氏行の子が児玉奥平二郎太郎持貞でした。

 

氏行から数えて六代定政の時、新田義貞と随兵して歴戦して勇名を果たしたといいます。理由は不明ですが突如として奥三河作手に奥平は現れます。

やはり理由は新田の没落滅亡なのでしょうね。あの時期、新田についていたとなれば関東にも京都にも顔を出しにくくなりましょう。

奥三河でひっそり暮らすことに居心地の良さを感じたのかも知れません。

 

ひっそりと言っても時は戦国前夜、勢力拡大に奔走する中、最初に作手に入ったのが父奥平定家と貞俊・定直の兄弟です。

長篠城籠城軍に山﨑善兵衛信宗という人がいましたがその人の祖に遠州山崎の住、山崎三郎左衛門高元という奥平定家の妻の縁者がいてそのつてで当地に入ったといわれています。

貞俊はその拠点として川尻城(場所はこちら)を建てました。

 

このように戦国期に生き抜くというテーマを考えると、親戚縁者の「つて」というものをとことん使って血脈を続け、イザとなったら先祖伝来の一所懸命の土地をもスンナリと捨て去って新天地での再起を求めるというのもなかなかのキレもの。

「奥平」のバイタリティについて今の人は見倣わなければなりませんね。

 

利用すると言ったら言葉が悪いですが人は一人では生きていけないのですから。

若いうちに怒られていちいちキレていたら大事にしたいと思ってくれる人であっても引いてしまいます。

 

時としてどちらでも同じような事を記していますが歴史を見ていると「統計学」のような気がしないでもありませんね。

膨大な人間動向のデータです。

 

川尻城址はそこそこ城址を感じさせる遺構が遺っています。

現在は開かれた公園となっていますが、私が上がった時は人っ子一人見かけられませんでした。

本丸を囲む土塁の中に小高くなった場所がありますが、古墳でしょう。