鑑定団 家康書状中條宛の成瀬に驚く 南志賀廃寺跡

昨日は朝から冷たい雨。

予定では法事も入っていませんでしたので相変わらずハマリ混んでいる「テラス」2階の板張りの調整を行うつもりでいました。

しかし最近の温かさに慣れた身にはこの寒さはこたえてしまいまったくやる気なし。

ちなみに土蔵を壊したあとに建てた色々目的を兼ねた建造物は「寺テラス」と勝手に命名したところです。

 

床材の選定に誤りがあって余計な手数がかかっています。

高価な節のない幅広の杉材を調達しましたが、反りが結構にあったうえ、材木屋さんが角を削ってくれたために(そうすべきということで)隙間が目立つところがどうしても気に入らず、フラットにしようと試行錯誤を繰り返しています。

フローリング材ではないやわらかい杉材です。かど取りは不要と思いますが・・・

これからはもう誰のアドバイスも受けず自分の好きにやらせていただきたく思っています。

 

ということで夜に放送される「黒い津波」の間まで一日中テレビの前に陣取っていたのですが、お昼は民放の「お宝なんでも鑑定団」にチャンネルを合わせるのはいつもの通り。

当地のそれは東京地区の放送日から1か月以上の遅れがありますから首都圏では1月22日に放送されたものとなります。

 

そこで出てきたのが家康の書状です。

織田信長の尾張の家臣団の一人中條将監(家忠)に宛てた短い手紙で家康の28歳の時、元亀元年(1570)十月二十三日の日付と花押つきでした。

 

番組では「志賀の陣」について触れていましたね。

その名を聞くと宇佐山城での攻防戦を特に思いますが信長上洛の永禄十一年(1568)箕作城の戦いで六角氏を近江から追い出したあと、元亀元年(1570)の近江を中心とした畿内の超ドサクサ「金ヶ崎の退き口」から始まって「姉川の戦い」のあとの宇佐山城(またはこちら)の戦いそしてそのあとの信長包囲網の緊迫した一連の戦闘をいいますね。

 

要は信長ピンチの連続で、当然に信長の先陣で戦っていた家康も家臣団もその年は休まる暇もない程の1年ではなかったのではないでしょうか。

信長があまりに難題がもちあがって「縁起が悪い」と改元させたものですから元亀年間はあっという間に終わります。

皮肉にも改元した「天正」(十年)に本能寺で命を落としたというのは周知のとおりでした。

 

画像④手紙の原文は番組キャプチャーしたものです。

 

其表通着陣之

由候御大儀御座候

左候者(さそうらわば)一尅(刻)も早々

待入候猶成瀬可

申候 恐々謹言

 

月廿三日 家康花押

中條将監殿(殿は「又」のみ)

 

「その地に着陣したという知らせを受けました 

たいへん御大儀でした 一刻も早くこちらに来られるのを

待っています 

詳しくは成瀬という者が(口頭)申します」

 

成瀬藤蔵正義が亡くなった三方ヶ原合戦はそのあと元亀三年1573のことですから、この「成瀬」とはまさしく藤蔵正義で間違いないところでしょう。

 

御先祖の名が記された家康の手紙に遭遇できたことに感動しました。また家康の元でメッセンジャーのお仕事などもしていたということがわかりました。

 

中條将監の次男は織田信雄のもとで小牧長久手にて戦い秀吉軍から敗走した際と推されますが足助に逃げているといいます。

足助といえば成瀬家の故郷ですから手紙の通りの面談により、成瀬とのパイプができたのかも知れませんね。

 

当時の手紙というものは100%相手に届くという確証はありませんから「詳細は別に・・・」とする事が多かったと。

詳細アレコレ記して敵方の手に渡ったとしてもやっかいなことになりますからね。

 

ちなみに番組ではこの手紙はホンモノ認定で何と500万円の値段がついていました。

「欲しい欲しい 買って買って」といつものように奥方に頼み込める額ではありませんね。

早速叔父に画像を送って検証してもらった次第です。

 

また番組ではほかに蓮如さん直筆の六字の名号も出ていましたがこちらも真筆で200万円。驚きです。

蓮如さんはそれを乱発していますからそう珍しいものではないと思っていました。どちらのお寺でも見かけますし。

 

現在「滋賀」とその名を変えている近江の地。

この「志賀」は大津に併合された志賀町がありますがかつてのその地の代表的地名です。

画像は以前行った志賀廃寺跡の草ぼうぼう。

場所はこちら