北条幻庵屋敷址は久野街道 例のクランクに

都内でインフルエンザの「流行開始」宣言がありました。

毎度毎度の冬季の厳戒情報ですが、コレばっかりは私もお付き合いは勘弁していただきたく、人混みはますます忌避すべき場所になりますね。

他に命に関わる病は数多ありますが、あまりにもそれは身近すぎるのです。

まぁこの病気の予防に右往左往しているうちが花なのでしょうが。

 

今年は「ゾフルーザ」なる抗インフルエンザウイルス剤の新薬が発売されていますので、「もしや・・・」と思ったら即医者に駆け込んでまずは検査ですね。

私は8月末からの気管支炎(らしき症状)が完治していず、日々咳混む時がありますが今そのウィルスにやられたとしたらすべてのことがストップしてしまう恐れがあります。

 

尚、「貴方はインフルエンザです」と医師に宣言されたらその薬の名をあげて所望しましょう。これまでの薬より投薬回数が少なくて済み、効き目も抜群と聞きますので。

 

さて、先日記した小田原久野中宿のクランクの「寒念仏」のスグ北側は北条幻庵の屋敷址・廟所といわれる地になります。

中宿公民館脇の路地を久野幼稚園方向に入ります。

すると「幻庵池」と鳥居、そしてその奥の廟らしき建屋が目に入ります。円墳を連想させる公民館裏手の竹藪と雑木の鬱蒼とした地に「何か」を思います。

掘れば何かが出てきそうですね。

私の「竹藪理論」は、住宅地にポツンと竹藪があったら「墓か遺構」を考えようというものです。

田畑や住宅が並ぶような好立地に長きにわたり放置された場所ということになりますが、そこには「タブー」の存在あるいは何がしかの足を踏み入れる事が憚られる伝承がある(かもしれない)ということです。

 

北条幻庵は伊勢宗瑞(新九郎長氏 のちの北条早雲)の末の四男で母は富士の裾野の葛山氏から来た人。当然に兄たちに憚って生まれてスグに僧籍にはいります。

箱根権現別当を引退するまでは僧にあって政治力をも発揮する文化人でしたが、50才を前にして北条家の一翼を率いる武将として采配を振るうようになります。

 

彼の出生も没年も多様な説がありますが、とても長寿だといい(天正十七年1589死去とすれば97歳)三代氏康以降は当家の大長老としてその威風を発していたといいます。

ちなみに前回大河ドラマ(直虎)にも一瞬折衝役として登場していました。

 

彼が天正十七年に亡くなったとすると、小田原北条の滅亡が翌年の十八年ですので彼は関東制覇した北条五代の繁栄と滅亡の示唆の100年をほとんどすべて見てきたということでしょうか。

 

以前、家康の小田原攻めの陣(今井陣場)を記しまのしたがこの家康軍こそ幻庵の住まった久野の地を通過したのでした。

おそらく北条勢の抵抗は皆無だったでしょうね。

北条軍の抵抗はもっと城の近く、谷津の御鐘ノ台から出て久野の入り口の蒲生氏郷の陣に夜襲をかけたことが知られています。

 

幻庵の屋敷がこちらにあるとすればある程度の城塞化は当然であり、箱根宮城野からの敵の東進を抑える意味があのクランクを含めてあったのかと思うところです(幻庵屋敷跡はこちら)。