小田原城総構 駅北の台地 谷津の御鐘ノ台

私の母方の祖母、「すずさん」について以前記しましたが、すずさんが入院加療し最期を迎えたのがこちら、丹羽病院。

昭和53年のことでした。

 

 その丹羽病院は北条以前の大森氏時代の主郭があったと推測されている場所の一画ですが(場所はここ)、小田原駅北口から北側の丘陵に一旦上がりきってから下りかかった場所にあたります。

その病院からは南にあたる丘陵が谷津の御鐘ノ台と呼ばれる郭です。

上記大森時代の城の位置とは微妙に異なります。

 

御鐘ノ台の郭は、総構の一郭、小田原城の北からの進入口を守る出城的施設で、守将は武蔵岩槻(岩付)城主北条(大田)氏房。

「のぼうの城」の忍城主の成田氏長と同様、関東支城の勢力を小田原に呼び寄せる籠城組の一人で北条氏政の三男です。

北条(大田)氏房は籠城中に家臣に任せていた岩付城の落城を知っての悔しさか、北条勢での唯一の攻勢を城から出て包囲する蒲生勢に夜襲をかけています。

 

 この「出城」は住宅開発によってわかり難くなっていますが、勘のいい方ならば鬱蒼とした竹藪が段丘上にありますので見当はつくでしょう。

場所によっては相当の高低差があったことが現在でもわかります。

 

 「面白い」と思ったことは、五輪塔等の仏塔の残欠が無造作に路地の宅地の隅にひっそりとさりげなく並べられていたことです。

どの様な経緯でそうあるのか不明ですが、おそらくこの地に古くからあるもの、あるいは後世土中から掘り出されたものがそのままこちらに置かれて、そして彼らなりにその既成事実を確立していったのでしょう。

 

 世の中ではこの手の敷地から出てきた等の墓石を嫌って坊さんやら神職を呼び寄せて、適当な経文等の気休めで処分するということをしていますので、珍しいことだと思います。

まぁ私なら祠の一つも建ててあげたいくらいですが・・・。

 

 そもそもこの地に最初に土着していたのは名も無き墓石の被葬者だったのですから。

室町初期の五輪塔とすれば600余年以前の住人ということになりますね。

 

 ①②が路地にある五輪塔たち。通行の多い丹羽病院のある下り坂から見た御鐘ノ台方向。⑨台地上から小田原市役所のアンテナ越しに見た酒匂川、国府津―松田断層方面。家康の陣が窺えたはずです。

⑩は谷津方面に上がって久野方面に下る寸前、小田原城方向を振り返ったところ。