九州からのお便り 佐々木上宮寺と野村一流

日曜日に催された「ぶら田沼」の件、昨日午後たまたまお参りに来られた総代さんから「今朝の新聞に出てたね」と。

ということでその内容を知りたいと思い新聞屋さんに向かいました。江戸期とはいえ城好きの方からはアンテナが向くところですからね。

これから本堂の下に潜る人が増えそうです。

 

それが嫌で父や祖父は公に出さないことだったのでしょうし、田沼失脚後に拙寺再建にあたって一部城の破却材を使用したことが松平定信ほか幕府にバレるのは具合が悪いということでずっととぼけていたことでした。

口述伝承としてその噂はずっとありましたが(日本城郭大系9 静岡)、この大規模建築物のリサイクル材が推測できる「ほぞ穴」の開いた木材という「現物」に関して、地元のメディアとはいえ表に出たのは初めての事です。

まぁ観光課の御役にたてられればそれでOKです。

 

さて、先日九州在住の野村氏からメールがありました。

とても内容が興味深かったものですからこちらに概略を記させていただきます。

①その方の祖父は愛知県安城市篠目町から約百年前に九州に転

 じています。

②ご先祖は近江を離れ岡崎市の佐々木上宮寺、知立市の重原から 

 安城に。

③この段階で私は三河門徒の流れを推測しますが、その方は拙

 ブログにて初代今井権七が五家(野村・増田・澤田・河原﨑・赤松)

 の祖とその安城近隣の赤松の叔父を頼って滞留し尚叔父を説

 得して遠州まで下った件についてその五家のうちの野村との

 関係についての推測を指摘されました。

④近江からの野村といえば近江野村(またはこちら こちら)

 庄を真っ先に思いますが私は家系の存続のために主君を変え、

 あるいは各地方に転じ、その戦国期特有の流転流浪(以後繁栄の

 新天地を求めた)親・兄弟・従兄弟等の一を分散させても血

 脈を続けるという意義もあったようなことを返信しました。

 よりよき定住が実現できれば苦渋を飲む一族を呼び寄せる事

 も出来ましょう。

⑤ただし上宮寺の有徳なる野村の人々の歴史詳細については不

 明な点が多いとのこと。

 

さて、九州の野村氏の御先祖がいらしたといわれる岡崎の佐々木上宮寺について。てっきり拙ブログでも記していたものと思いきやまだだったようです。

よって画像は4~5年前のもので失礼します。

拙大澤寺の一昔前の本山取次の寺といえば三河本證寺( 1 2 3 4 )ですがその本證寺をはじめ「三河一向一揆」の主体となったのが上宮寺と勝鬘寺の三カ寺であったことは著名です。

 

その太子山上宮寺に関してはHPが充実していますので詳細は割愛しますがこのお寺が私なりの感動するところは地名「佐々木」の「上宮寺」でなお住職が「佐々木さん」というところと近江佐々木を推する目結紋。

近江観音寺城の六角氏が思い浮かびます。

そして何よりも本堂再建の懇志を謝する有徳なる人々が記されたプレートをあらためて見やれば「野村」さんのオンパレードでした。

もう少し深く掘り下げて知りたくなりました。

 

本堂は火災焼失の苦難を乗り越えてモダンなタイプへの再建が成っています。

日本古来のカタチではありませんが、所蔵宝物の貴重さと数は特筆ものですね。

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コメント: 2
  • #1

    野村幸一 (火曜日, 24 4月 2018 14:14)

    ‼︎
    非常に興味深い話ですね!

    また何かわかりましたら宜しくお願い致します!

  • #2

    今井 一光 (火曜日, 24 4月 2018 20:33)

    ありがとうございます。
    わからないことばかりですが事実としてあったことに
    私が勝手に推測解釈して楽しんでいます。