「楽」人との接触  碧蔵寺   野村の一本杉五輪塔

昨晩のサッカー、イラク戦の件、それにしてもギリギリまで私は「これで首の皮!!」となって、埼玉スタジアムだけに試合終了後の野次と罵声がどうなるのか見ものでした。

下手をすれば監督含めて選手全員「腹切り」ものといった醜態を晒す事になりましたからね。

酷い試合でした。

相手チームは「オリンピック世代」で日本でいう「A代表」にはあたりません。何よりあの国の状況からコンディション的にも劣悪といってもいい状態で、まともな練習もできなそう。

 

そのチームにあの程度の「ギリの試合」を強いられるのではもう途中で匙を投げたくなるほどの弱小チームです。

もし引き分けたとすればW杯出場に赤信号が点滅しだすくらいの試合でした。

何とか勝ち点3を拾う事ができたのですから、反省点を拾い出して絶対ヤバそうな次のオーストラリア戦に生かしてもらいたいものです。

 

気持ち、今の状態では「0-3」の如く大差で負けてもおかしくありません。

まぁド素人の意見として敢えて記させていただければホンダ氏にボールを集めるのは「〇✖の一つ覚え」です。当然にボールは「中に中に」になってそれが相手には「お見通し」であることに気づいていないところが痛いのです。

「中」は混みあいますね。昨日は味方同士で交錯するシーンも散見しました。

 

昨日の1点目のように「外からのマイナスの折り返し」に勝機があると思います(それもグラウンダーの早いボールで)。

そしてホンダさんは相手の惹きつけ役に徹して他のプレーヤーを生かすことに心がけてほしいですね。

(※プラスのセンタリングとはゴールに向かっての「最終パス」。自軍フォワードは後ろからのボール、オフサイドも気にしなくてはなりません。敵キーパー、ディフェンス陣からは正面で対応できてしまいます。ところがマイナスのセンタリングはゴールから逃げていくボールでキーパーは対応できず、また自軍フォワードは前を向いたままシュートができます)。ブラジルの小刻みなパスサッカーを真似ようという気持ちが見えますがそれは無理。タッチラインギリギリを走ってゴールラインギリギリで折り返す。そういうサッカーが見たいものです。

 

さて、あの日(昨日ブログ)の日没前「ギリ」で行った野村町のあれこれ追記です。

「字」部落の真昼間というものはあまり人を見かけることはありませんが、その日は夕刻で、意外と人とのすれ違いがありました。そもそも私は遺物遺構もそうですが同時に「生きた人間」も探しながら歩いています。まぁその場合、人を選別はしますが・・・

 

余程人が居ない場合は片っ端から声を掛けますが、こと地元の歴史に関しては50代くらいの女性の場合はまず「けんもほろろ」ですね。そもそも彼女らは「知らない」ので当然でしょう。

まずは「他所から嫁に来たから」と理由は述べてくれます・・・。

ということで私のターゲットは「60代以上の男性」を捕まえるべくきょろきょろしながら歩きます。

 

野村町散策の際やはり見つけた人はちょうど忙しく水路の掃除をしていた明らかに地元の方とお見受けする人でした。

最後に「インタビュー」してやろうとキープ。

一通り街区を歩いて辻の石標等をパチパチと撮影したあと、「野村氏の館の推定地」のヒントを聞きに声をかけました。

 

なお、その推定地はあの辻の周辺というのが通説となっているようですが、確証が得られなかったためです。

昨日記した道標の解説板には「大名の御休所(佐々木家)」とあり、その邸宅がまんざら当地野村氏の邸宅の延長であったことも考えられなくはありませんが、後世の混同もあり得ます。

とにかく地元の意見は大事です。

 

多少の土塁らしき構造物の存在も環濠砦の類であればそこいらじゅうに土塁と掘を巡らしているのは当然のことで「土塁が残る場所が城址本丸」と決めつけるのはちょっと・・・というところもあります。

 

よって私は仕事に励むその方を捕まえて、上記の話をしたのでした。

すると・・・この問答以下がたまらなく面白いのです。

まず、その方は堰を切ったが如くの質問を私に浴びせてきます。

「あんた誰? 静岡ナンバーの車であっちこっち走って、そこいら中で写真を撮っていたが・・・」です。

 

心中「おお、チェックが厳しい!!」・・・

こういった字(あざ)の住人は余所者チェックは怠りがありません。考えてみれば当たり前のことですね。

まぁ普通は「あんただれ?」とハナっから言われればどぎまぎしてしまう人も多いかも知れませんね。

ところが私はこういう対応をされると特に嬉しくなってしまうのです。

その私に対しての不審感溢れる雰囲気からどう情報を引き出すか・・・どう自分を理解してもらえるか・・・

 

結論としてここの住人の心の温かさは半端ではありませんね。

親切すぎるという感もあります。

私が「こう、こう、こういうことで野村氏の城址らしき場所を探しているが・・・」というと「おお、それなら区長を紹介しよう」と区長の自宅へ案内され、「ピンポンは貴方が押して」と。

 

奥さんが出てきて「わからないので〇〇さんへ・・・」と言われてその方は今度は別の方の家へ案内同行してくださり、上記と同様にブザーを。そんな感じで案内役をしていただいたのです。

 

またもその家主不在がわかった時、それなら・・・と最後に「寺へ行きなさい」と近くのお寺まで。

ちなみに上記すべて近隣で歩くに何らの苦もありませんでしたが3件すべてその方がご一緒してくれました。以前大阪人のその手の親切心について記したことがありますが、本当に厚く熱いのです。

 

その寺が真宗大谷派の「祥雲山 碧蔵寺」です(場所はここ)。

その方に宗派はどちら?と聞き返した時に「大谷派の門徒だよ」と言われたときには思わず「ニヤ」っときてしまいました。

「ニヤ」っとした理由は2点。

相良の野村氏の宗旨が拙寺で真宗大谷派、その出自を予想する野村町の字の中心にある寺が真宗大谷派の「碧蔵寺」だったことです。

そして住職に「あんた誰?」と最悪怪しまれたとしても何とかお話だけは通じるに決まっているからですね。

 

ところが住職は生憎と来客中。外から声が聞こえます。

しかし躊躇していれば日没となりますので、失敬ながら「えいやぁ」で玄関を開けてしまいました。

その会話の中に割り込んでざっと「こうこうしかじか」と。

するとご住職は「裏の1本杉に行きなさい」と仰いました。

詳細念を押して聞くことはできませんでしたが、ここが住職の推定する城址なのかと思うほどのそれらしきロケーションでした。ある程度の権威者の縁ある場所(・・・野村惣領)であれば、後から住居を建てることは憚れるかも知れませんね。

 

私はこれを「野村の1本杉」と勝手に命名。

寺のある集落の縁からはほんの少々、伊吹の山方向に歩きます。他に何もその雄姿を遮るものが無いのでスグにわかります。

 

そちらに行ってみてまたも歓喜しました。

五輪塔がお迎えしてくれたのです。

あの方の親切がなければこの感動は得られなかったと思うと感激ひとしお。

 

帰りにぐるっと回ってあの方に謝意を告げようと探しましたがすでに姿はありませんでしたね。

少々不思議に感じて帰路まじまじと考えました。

ドラマチックなストーリー仕立て、「そんな人は初めからいなかった・・・姿を変えたどなたか・・・」などと「仏のはからい おかげさま」をこじつけてしまうのです。これも仕事がら私の習性です。

 

五輪塔に向かって「どなた様であらせられます?」などと何かしらの銘を探すも不詳。勿論案内板等もなし。

念仏してそちらを後にしました。「また必ず来ます!!」。

また、もっと「碧蔵寺」ご住職に聞きたいことがありますので。

 

⓼は五輪塔近くの草むらで見かけた石。裏返そうとは思いませんでしたが何らかの「遺物」と思いがちになるのは「殆どビョーキ」かも。

⑨は違和感ある貨車コンテナから集落を望んだ図。北東方面からということです。⑩が南方⑪が東の伊吹山

⑫北東を望む図。コンテナが見えます。

⑬が北方 ⑭西の方角。日没の図です。

戦国時代と同じ風景が流れているのでしょうね。

 

赤い星印が道標のある辻。黄色の〇が「碧蔵寺」。赤丸が一本杉。矢印が違和感あるコンテナ。

碧蔵寺を鬼門(北東)と見立てれば館の位置は赤星印となりますが、私はこの一本松を本命とします。

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コメント: 5
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 07 10月 2016 09:05)

    よかったねー。何と幸せなことか。うらやましい限り。
    最初に案内してくれたのは仏に違いありません。人間の姿を借りた仏です。
    もー笑っちゃうくらい最高!。
    まるで「つるべえの家族に乾杯」みたい。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 07 10月 2016 12:06)

    ありがとうございます。
    知らない場所で知らない人と話すのは新鮮です。
    畿内の人たちが日本人の源流であるとあらためて思いますね。
    昔から本来持ち合わせていた日本人の良さを垣間見ることができて、
    会話一つで心が洗われる気持ちになります。ホントに登場する人たちが皆「仏」に見えてきます。
    部落内での老若男女の声掛けと子供たちのそれに対する対応を見ていてもわかります。
    人との会話は自分のお頭にもイイですね。
    やめられません。

  • #3

    野村幸一 (金曜日, 07 10月 2016 21:07)

    なるほど!ワクワクしてきますね(^.^)真宗大谷派の寺院が野村町にあるのなら当家の祖先がそこの門徒で、その繋がりの中の縁で今井権七一行の仲間に…ということも考えられますね。



  • #4

    今井一光 (金曜日, 07 10月 2016 21:18)

    ありがとうございます。
    寺は野村合戦によって荒廃したようで江戸初期の中興再建のよう。
    いずれにせよ絶対に今一度寄らせていただく所存です。

  • #5

    野村幸一 (金曜日, 07 10月 2016 23:11)

    またその時にはブログを楽しみにしております(^-^)/