馬との関わりと感謝のカタチ馬頭観音 源範頼の馬 

とうとう上野の特別展(東京国立「運慶展」)へは行けず仕舞。

行列について耳にしていましたので時節柄寒風吹きすさぶ中のそれはキツすぎるということが躊躇する理由でしたが、そもそもこの冬、スケジュール的にのんびりと東京行脚をする余裕もありませんでした。

 

例年であれば報恩講も過ぎてからの時間は余裕がありすぎて「さあ近江か京都か・・」というくらいに飛び出していくものですが、今年は何故かいろいろ事項目白押し。

この時期の城めぐりはベストなのですが・・・特に積雪もなく広葉樹の葉が落ちた今はチャンスです。

この時期の登城しかないと私が勝手に思い込んでいるのが高島の清水山城。

まぁ熊が怖くて踏ん切りがつかないだけですが。

夏の間、あの辺りの人家のある平地にまで熊は下りて来ていたといいます。

連中は最近、冬眠しているのかしていないのかわからないほど。スキー場のゲレンデに熊などいう話も聞きますし。

 

よりによってその展覧会の最終日の昨日はフリーでしたが、さすがに日曜のイベント最終日に、のこのこ上野まで出ていって打ちのめされるほどの疲れを味わうのは甚だ御免、ということで諦めの決断。

よってこの日は熱帯系の植物たちを納める特製インチキ温室のベースを製作しました。これまでは木枠を使っていましたが今年は鉄管パイプを組んでのもの。しっかりはしましたが玄関脇のそれは異様そのもの。いずれ抜本的に改善したいものです。

上記最後の画像がそれです。

 

日曜日でも昨日はごみ処理場の稼働日につき、夕方4時過ぎに処分を済ませました。帰宅すると屏風展の開催が今日までと、史料館の長谷川氏より連絡がありました。

閉館30分前でしたがすっ飛んで向かい慌ただしく見て廻りました。決まっていたこととはいえ、こんなに早く閉展されるとは思ってもいませんでしたので慌てましたね。近すぎていつでOKの気持ちがありすぎました。

 

これぞという屏風絵の「個人所有」は案外と相良在住の「それなりの家」だそうです。

「それなり」とは失礼な言い回しですが、旧来土地持ちの旧家やら旧御用商人の事で意外に散逸していないイイものがあるものだと感心した次第です。

特に長谷川氏ご推奨の名物は寺田洞仙の描いた左右の「松に鶴屏風」。私は拙寺本堂の天井画というスケールのものしか見たことがありませんでしたのでこの屏風図のすばらしさには圧巻でした。

時代が経つと痛みは当然に現れますので、委託寄進されたとしても維持が大変そう。それでいて個人所有のそれらは売却の憂き目にあって地元から離れる事になりかねませんね。歴史の重さをカネに代えてしまうことは惜しまれることです。

 

その他小島蕉園(またはこちら)漢詩の屏風は初見でした。

伊佐新次郎の書「龍」の字も良かったですね。

屏風というものは何かを隠す家具でもあります。個人所蔵のものを集めて展示し、その裏の目の見えない場所で来客者が何かやらかしてしまったら・・・その重大責任について冷や冷やだったことが窺われました。それにしてもあれだけの代物を集めて回るということは相当のご苦労があったことと。

昨日で企画は終了してしまい、もっと早くコメントが記すことができなかったのは残念なことでした。

 

④⑤は会場バンフ。⑥は明治33年の静波明照寺にて行われた地元画人たちが集まったイベントの名簿から。

下段にスポンサーの名が記されていましたがここに小山平吉・布施才助の名が見えます。才助の名は過去帳にありませんが新助の間違いか、どちらかに出た人かも。沢田喜次郎は菅山とありましたので旧酒屋さん系かどうか未確認。

他にも拙寺檀家さんらしき名がありますが過去帳には見当たりませんでした。笠原小十郎の名は静波の家の過去帳にはありませんでした。

 

さて、①②③は昨日記した龍泉寺の近くにあった馬頭観音。

由縁については石板に記してある通り。範頼の馬を祀っているとのこと。

野や道の端に立っている石仏や祠にはどうしても目が行ってしまいますが、概していえることはその圧倒的という形容でも言い過ぎではないくらいにあるのが馬頭観音です。

古い時代の製作年代もありますが、当地の江戸期に作られたであろうその石仏はそうは珍しくもないという感。

そして、その観音石仏は地蔵や他の石仏と一緒に祀られる事も多いですね。

 

それはどういうことかといえば馬という生き物が人間の生活の中に密着していたということでしょうね。

まぁ馬であろうが他の動物であろうが彼らに「感謝」の意を表すために動物たちをいっしょくたにして「馬頭観音」を製作したということもあるかも知れません。

あの石仏は大正七年に建造されていますので、古いモノではありません。江戸期によくある(大抵は馬頭観音はそのパターン)「おっかない顔」の特徴を表現しています。

 

馬頭観音の顔を見ると人間に対して「散々こき使いやがって」「感謝して反省しろ」と言っているようにも感じます。

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (月曜日, 27 11月 2017 09:00)

    あれ 私も閉館30分前くらいでした。会いませんでしたね。
    寺田の屏風絵はさすがでした。経年劣化の補修ははお金が掛かります。
    Hくんが売りに出るようなら自分で買おうか、何て言っていました。
    上の屏風展で半分を見て下の史料館で残りの半分を見て唖然ですね。
    こんなに痛んでどうするの。
    Nさんのお宅にあった板倉の額も消滅とか。なんと言うことか。
    まだまだあるはずです。K子さんとも会えないがどうしているのか。
    あの数々のお宝はどうなっているのか。

  • #2

    野村幸一 (月曜日, 27 11月 2017 13:35)

    名前が連ねてある写真の中に浄川香雲の名前がありますね!当家初代の野村庄十の娘"さの"の旦那さんと同じ名前ですね。

  • #3

    今井 一光 (月曜日, 27 11月 2017 18:19)

    小山さんありがとうございます。
    伝来の品物が散逸するのはまずは相続ですね。
    各思い入れというものが違ってきますのでバトンタッチが「ぼんやり」してしまうと
    残念な結果になりかねませんね。
    といっても家中の件、外野がとやかく言う事も憚られる事ですし。
    それだけに厳然と残るということに価値があるのでしょうね。

  • #4

    今井一光 (月曜日, 27 11月 2017 18:21)

    野村さんありがとうございます。
    陣台山にあったさのさんの墓には「浄川香雲」とありましたが
    坊さんの法名のような名前ですね。
    詳細不明です。