唐人お吉の像が本堂の前に  伊佐新次郎の墓

通俗・情緒的で日本人好みのストーリーを「浪花節的である」と言ったりしますが昭和辺りまでは、小説・舞台・映画などその線をだいたい目指していればある程度の「当たり」は計算できたでしょう。

かつて父や祖父が話していましたが、昭和初期から戦前は地方巡業の舞台であってもストーリー上の敵役に向かって「酷え事しやがって・・・」と今にも飛びかからんばかりに観客が舞台に駆けあがることがあったといいます。

 

すべてが単純明快な時代だったのです。そういう意味からしても国民全体が「騙し・騙されやすかった」ということが窺えて、悪い政治が跋扈する時代であったことがわかります。少なからずその血は継承していることも。

 

かつて私が住んでいた小田原の浜町に「唐人町」と呼ばれた地名がありました。国道1号線、東海道です。

現在でもそう呼ばれるバス停(場所はここ)などの名残が見えますが、伝わるところ北条時代にこの辺りの浜辺に明船が遭難して、うちあげられた明の人々が居住を許された場所だそうです。

 

母方の祖母「すずさん」や年配の女性たちは、赤ん坊を近くにするとこぞって「お唐人さん」と目を細めて言っていたことを思い出します。母親も私が意味不明な言葉や態度をしていた頃はよく「お唐人だから」と納得したように呟いてもいましたね。

 

これは単純に「唐=中国の人」ということではなくて、当然広く「異国人」という意味はあるにしろ「言葉が通じない」「コミュニケーション不可」「道理が通用しない」という意味になったのだと思います。

 

さて、標記「唐人お吉」は小説、読み物から始まって戯曲、映画と日本国内色々な人が手掛けていますが、その「唐人」、その「お吉」のことではありません。日本人です。そのお相手が「タウンゼント・ハリス」だったからでしょう。唐人=中国人ではなくて今でいう「ヤンキー」(若者言葉で無い)チャキチャキのアメリカ人です。

 

後世語り物として色々なストーリーで演じられているようですが、お吉はハリスの夜伽の相手ではなく、純然たる看護付き添いで雇われていたというのが本筋のようで、色々面白おかしく描かれて人情ものに仕立てられていったというのが本当のところだったようです。

 

その際、看護人としての依頼をそのように早ガッテンして彼女を紹介したというのが下田奉行支配組頭時代の伊佐新次郎だと言われています。

伊佐新次郎はのちに初倉に住まいこの地に没しています。

その寺、法林寺の本堂前には小さな「お吉」の像が建っていますが、伊佐の墓碑は南無阿弥陀仏。「愛染明王」の寺とお見受けするところその名号に関してはちょっとばかり腑に落ちないところがあります。

場所はこちらです。

今井信郎の屋敷からはそう遠くない場所です。

 

ハリスは日米修好通商条約の締結によって、初代の駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖し安政六年(1859)江戸の麻布善福寺(またはこちら)に公使館を移しています。

 

③画像は斎藤きち19歳の時とされる写真はウィキより。真正の「お吉」かどうかは偽説あります。

 

⑥は本堂脇の歴代住職の墓と並んであった古そうで味のある石塔。特に左側の小さい方、まず室町期は間違いないところ。

風化していて文字は欠落しています。

よく見ると両方とも古い物ではありましょうが、パーツ合わせしているようです。何か残っていたとしても読み切れるものではありませんが。