満招損 謙受益 時乃天道   「書経」

中国の古典「書教」は政や治世のバイブルの如き書。

その中の数々の教えは、日本でも「政」の道にいる人ならずとも多様な方々がそこからお気に入りの文句を引っ張って、書してあるいは掲示し、まず自らの指針とし、人々に知らしめようとしました。

特にこの手の文言は坊さん好みであって、しばしば「こうである」風インパクトを狙って示されたものが多いのかと思います。もっとも禅的であって真宗の坊さんはそれらしきことをあまりしないようです。

 

特に書を記すということの意義を例によって穿って考えると、その掲示をして

①意味はわかるか?②出典はわかるか?③その前後の文言を知っているか?④そして、書体を崩して個性的な字に崩して(何が何だかわからなくして)「読めるのなら読んでみろ」の意図があるのかと思います。そのような「お遊び」も含まれているかと。

 

しかしながら、そんな書が記された時期は今の様に簡単にPCでググって調べものができるような世の中には無いので、確かにそれらを記し、また普通に「フムフム・・・」と読みきるその知的センスというものには驚かされるばかりです。

だいたい「引っ張ってくる」ことすらできませんので。

 

ここでもまた穿って考えて、大体の代表的キマリ文句が流布していた(元ネタがあった)と考えれば少しは了解できますが、何しろ古典・経典の文書は中国から日本にかけて溢れかえって有りますからね。

まったく驚愕の勉強度を推すしかないです。

 

ということで扁額三文字が掲げられていて、「さあ、どう読む」と言われたら・・・睨めっこをしていても埒があきませんので、私は毎度恒例の叔父さんへ考察と判読を頼み込みます。

知識もへったくりもありませんからね。

 

標記、三文字というところも無茶ですね。

大抵こういうものは前後が省略されていますので、その辺も判りにくくするところですが、読まなくてはならない字数がたったの3つと少ないというところは悪くない

 

画像は伊佐新次郎の扁額です。伊佐の本名は岑満(みねみつ)、通称が新次郎です。字は「樓卿」、号を「如是」といいますが、この辺りの骨董屋さんでは「如是さん」で通っている様。

 

「如是」という名は坊さん好み、「如是我聞」は阿弥陀経の冒頭です。小田原花岳城の城源寺さんご住職を思い出します。

仏の法を伝える経典の冒頭、「如是我聞」が「私はかくのごとく聞かせていただいた」という文言で戒律の「法」でないことがわかります。

謙虚で慎み深い姿勢から始まるのがその経典ですね。

 

伊佐新次郎の記した文字は標記

   「満招損 謙受益 時乃天道 」の真中の部分 

「謙受益」です。

意は

「驕り高ぶりは損失を招き 謙虚こそ利益が・・・そう生きるべし  そのことはお天道さまがしっかり見ているよ」のようなことでしょうか。極めて儒教的教えですね。

損得(カネ)勘定ではなく謙虚こそ政治家にとって大切な事は当然。

結局はそのように生きた方がみんなの益にも自分の利にもなるものだということでしょう。

政に関わる者だけでなく誰もが社会に出て通じるところです。

 

一昔前の日本人の心には「一揆、特攻」以外にもこの「満招損 謙受益」の心を持ち合わせていました。

何度も記しますが現代人はみんな「満腹」(はらイパ~イ)なのです。

慢心・傲慢、御身大切で始末に負えない我がもの顔の体。

あたかも未来永劫それが続くと思い込んでいるかの如くです。

 

そして仏の談、如是我聞・・・其々の「無常」がお待ちしていますよ・・・と。勿論私も含めてです。

それを昔から「己の様を見ろ」→ザマを見ろ→「白浪誤認?男」の台詞の如く「ざまぁみやがれ」になってしまうのですが、その時までまったく「わかっちゃあいない」滑稽なところも人間なのでした。

「如是我聞」の精神を忘れてはなりませんね、六字の名号とセットでその語を日々何度も称えたいと思います。

 

勿論右から読みます。

「謹」の字は言ベンですが、一本棒OK。読むべき個所はまず「つくり」。「僅」という「わずか」という意にも近くて「満」の真逆を表していますね。

「樓卿」「如是閑士」の落款。

流れで予測するしかないですね。