ごめんなさい  「今いのちが・・・」の寺なのに

長~い夏休みが終わって昨日雨中、息子を浜松まで送りました。

そこから京都まで1時間と少し、あっという間です。

私が相良に着いた頃、寮到着の報がありました。本当は冬物の布団が欲しいということで、車に積んで一緒に京都まで赴こうと思いましたが連続の降雨と連休前の混雑など予想され、京都行は中止。

さすがに学校の方はシルバーウィークなる連休は無く、授業は始まるそうです。

 

親の希望を圧しつければ歴史学から考古学、図書館学等をかじってもらい、その後は研究員としてどこかの大学院でも・・・などと勝手に期待していましたが、彼にはまったくその道への興味は無いようです。

この休み中はほとんどの時間、阿呆づらで大音量の音楽を聞いていました。ということでそれならさっさと監視のできる地元に呼び寄せて、寺仕事でもやらせようかというところです。

あまりどこかの道に没頭しすぎてしまうと今度は寺に帰って来ないという例も各所で散見していますから、まぁほどほどでいいのですが。

 

さて、表記「今いのちが・・・」は当ブログでも何度か記している本山、東本願寺の親鸞聖人御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」です。

御遠忌の法要は終わっているのですが、このメッセージは新米坊主(一生この「新米」は取れないでしょう)の私の脳裏に焼き付いていますし、今もなおこの言葉そのものも「生きて」います。

 

実は、ある真宗寺院から呼びかけがあったのです。

そう、例の国会議事堂前の件ですね。

勿論あの法案に当流坊さんの中、賛成する人は皆無でしょうが、やはりあそこに「お参り」するのは少々キツイ。

 

その重大性、当家小僧や世の中の子供たちに「戦争」という脅威の芽がもたげようとしていることがわかっていてもです。

これは「後のことは知らねぇや」というよりも「お腹がいっぱい」だからなのでしょうね。

 

雨の中に集まってひと声でもあげられれば少しは気持ちも満足できたのではないかと思いますが、私など打算的になって、最初から「徒労」であると考えてしまっていますので非常にズルい。お恥ずかしながら、まったく口だけで、ごめんなさいの思いのみですね。空しいですが。

 

さて「お腹がいっぱい」とは「比較的満足、まぁまぁの生活」に埋没しているということです。

どこかで「日本人は礼節を重んじる国民」だから「デモは良くない」というコメントを聞きましたが、これは歴史的に見てトンだ間違いもいいところ。

あのデモなどオトナシイ集会に毛が生えたようなものでしょう。また歴とした合法の権利ですからね。

 

昔から日本人にはその歴史の中、頻繁に政権を脅かした民衆の動きとして「一揆」がありますね。

土一揆(つちいっき・どいっき)です。

礼節は重んじるが一旦キレれば騒乱となるのが日本の歴史。

ウソだと思ったら室町期、応仁乱以前の京都周辺の歴史を紐解いてください。

京都といえば首都ですからね。

 

極論ですがその一揆が現在見えなくなったということは民は今「満たされている」ということなのです。

この「満つ」は幸福感なのですが、コレに関しては「命の悦び」等精神的とか哲学的なもので無くただ単純に「空腹でない」ことなのでした。

あの劇中の竹千代が雪斎と交わした台詞を思い出します―

「腹を空かすと皆怒りっぽくなる」。

 

極度の飢餓は人々を乱暴、狼藉、争奪、打ちこわしに動かすものなのです。これは今言う「テロリズム」ですね。

「喰えない」が人を暴力に導く、コレ鉄則。

それに悲痛と屈辱があれば強靭な反動力になり得るのです。

今、テロリズム、自爆テロという語を聞き、「日本人の心に無い」と苦虫を潰した如く言われますが、上記それぞれ「一揆、特攻」と日本人ならまた誰でも知っている語があったのではないでしょうか。

 

これから「国の雇われマダムにすぎない」連中=政治屋の暴走が始まるようです。

日本のみならず世界の天変地異が続き、食物の収穫が激減した時、日本のぶっ壊れた農業事情を見れば国民を養う「食」はまったく喪失するでしょう。

飢餓が始まる要素がありそうです。

そこで民間レベルの一揆を抑えるために国レベルで他国に収穫へ出向くというのが「戦争」なのです。

平和で礼節に厚い農耕民族であるためには、国内で米を作っているのが一番のよう、昔ながらの灌漑と治水に政の精神を見出して欲しいものです。

 

当流本山の新聞の9月号に特攻隊員が「南無阿弥陀仏」と称えながら聖典を胸に抱いて突っ込んで行く話が記されていました。

戦前の真宗の教えは、その「阿弥陀さんを国にすり替えて」しまったという最悪の歴史が厳然と残っているのです。


それは国というかやはり「雇われマダム」にそう仕向けられたからであることは間違いないところですが、寺の片棒担ぎのほかならぬところで、戦後からずっと当流が反省しているところなのですね。

 

その根拠は単純、仏の教えとして「反省のない、過去を省みない」者を「畜生」としているからですね。

「雇われマダム」に権力を持たせると増長してロクなことにならないという国民の反省(憲法)がそこにあったのですが、やはり70年も時間が経てばこういうことになってしまうのでしょうね。歴史もそうですが仏の意思は増長する人を嫌いますので、その後のことも含めて冷静に様子をみることにしましょう。

 

画像②③は小学校低学年の頃の息子。

いたるところに連れて廻りましたが現在その手のことはまったく興味なし。

そんなものでしょうか。それともうちはハズレ?

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 17 9月 2015 10:43)

    議員は選挙で選ばれますが、すべてをその人に託すのではありません。
    そのことが間違って解釈されているのではないでしょうか。
    私は自民党員で総裁選では阿部さんを選びました。
    選挙でも自民党へ入れました。
    でも 全てを託してはいません。
    どうしたら そのことがわかるのでしょうか。
    議員もそのあたりを理解してもらいたいのですが
    わかってもらうには、どんな 方法があるのでしょうか。
    今度の選挙では「賛成議員は落選させよう」といいますが
    落選させるためには他の議員(野党)へ1票入れなければなりません。
    他の野党で政治がうまくできるのでしょうか。とても疑問です。
    そうかといって、選挙棄権はもっと危険です。

     現在 継ぐ気がなくてもぞれなりでいいのではないでしょうか。
    親が反対する職業へ行きたくなったら、親は反対する、
    それを乗り越えてでもその子が行きたいなら、それもいいでしょう。
    1度きりの人生です。たかが寺。
    (寺は誰かが継ぐでしょう)
    その子がどう考えるかはその子の自由。

    大丈夫。子供は親の背中をしっかり見ています。
    今から心配することはありません。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 17 9月 2015 20:00)

    ありがとうございます。
    やはりあのお仕事に就くと、慢心となるのでしょうね。
    どの世界でもそうですが、そういう意味で慢心・満身は自身を省みる時
    意識的に修正していくべきところです。

    息子は坊さんになることに関しては不思議な事にヤル気満々なのです。
    ただしその道のプロフェッショナルとなる坊主になるのでしょう。
    そこでの「プロ」とは誤解を招きやすいのですが、往々にしてそれは
    機械的法事プロ、他を寄せつけない排他的威厳の確立と私が
    危惧しているところなのです。
    よって宗教学だけで終わる事無く、他の世界を覗くということで
    私の趣味延長の学びへの希望を出しました。
    こういう場合は私の歩んだ道と同様一般社会でのサラリーマンが一番ですね。
    本山での就職という選択肢も「大変好ましい」こととは思っていても、ある程度
    他者からの敬意というものが最初から約束された立場でその世界そのものが
    限定的であってバリエーションが無く真の血の通った人間関係を作り上げるには
    難しいのではないかと思っています。
    人によって大いにそこの受け止め方と成長は違っているのでしょうが、息子の
    場合はネガティブ材料の数をこなすことこそが成長の元であると特に思考する
    ところであります。
    あと、「楽しい」と思うことに没頭して省みないところがありますので(みんな同じ?・・・)
    何事も「暴走」が怖いですね。