新豊院山は向笠城 消滅は必定今川→武田 向笠氏

日曜の午前は御前崎の先方ご自宅にて法事。

一応はそののちに予定されていた本堂参拝とお墓参りは別の日に変更いたしました。

「横殴りの雨」に無理をすることはないですから。

150号線を走る車もまばら、途中防波堤を波が超えていました。

ちなみに午後も3時からも須々木地区にて「お取越し」がありました。本当は家でじっとしているのが一番ですが、その時間帯でしたらまぁ何とかなるレベルでした。

ただ何事も無きよう、明日の朝を待つのみです。

 

さて、昨日記した新豊院山の古墳地帯は天竜川東岸の河岸段丘でその段丘を降りた東側には太田川が流れます。

要はその台地の東西に大河が流れていますのでこの台地の縁に城砦を設けることは合理性がありますね。

 

尚、この太田川の下流が三方ヶ原戦の前哨戦の「木原畷」(1/29 1/30)であり、この台地上には本多忠勝が武田軍南下の状況を見物した三ケ野の大日堂があります。

 

その新豊院(場所はこちら)の背後にある東に向いた段丘、新豊院山には向笠氏の向笠城があったといいます。新豊院のスグ下には敷地川と小藪川の2本の太田川系支流が流れ、特にその三本の川は天然の堀の役目をして要害性をアップしていたことは手に取るようにわかるような地形になっています。

 

今川氏親時代に伊勢宗瑞配下として三州岩津城(こちらも)攻城戦に遠州勢として「無笠」の名があるようですが、武田の遠州浸潤の中、武田方として浜松と高天神ラインの北側を分断する城として機能していたようです。

その流れの中で武田と共倒れし歴史から消え去っていった地元国衆の名は数多に及ぶでしょうね。こちらの地名として残る向笠の盟主は歴史から退場の憂き目にあっているようです。

 

③は新豊院に集められた定福寺(廃寺)に散在していたといわれる五輪塔残欠。森の中腹に威厳を放つように立ち尽くす五輪塔が向笠伯耆守のものといわれます。

 

この城は台地上から三方に展開して攻められればひとたまりもないでしょう。最終的に向笠氏は酒井忠次の手で排除されたといいますが、「武徳編年集成」では「可久輪の城(各和城)をば石川日向守(家成)、久野三郎左衛門宗能宵より是を攻る処、暁天に及で城陥り城将を斬獲しければ、六笠(向笠)一宮(一ノ宮)の両城は味方の旌旗をだに見ずして逃奔り数砦惣陥り畢ぬ」と落城が一方的であったことがわかります。丘を駆け降りて川を渡るなど散り散りになって逃げまくったことが想像できます。

 

 

また「煕庵遺書」には「此地は向笠五郎、向笠伯耆守住す。甲斐軍に属し其孫向笠平兵衛、井伊掃部守に仕ふ。」「天正元年三月平岩親吉をして天方城を攻めしむ。守将久野弾正甲州に奔る。石川家成、久野宗能をして可久輪を攻めしむ。敵出奔す。酒井忠次をして鳳来寺城 六笠一之宮の両城を抜かしむ。伯耆守六笠に在り、武藤刑部一之宮にあり」(城郭大系)。

 

ちなみに高天神城戦の天正九年、徳川軍に包囲された最期の時、武田軍城兵の中で橘ケ谷から切って出た三百騎のうちの一人に「六笠彦三郎」なる人の名が見えます。また、直系子孫は小田原北条に逃げ込んだといいますが、結果論とはいうもののいずれも選択を間違ったという感は拭えません。

 

以下最後の二枚が昨日お昼頃の新遠渡坂から見た地頭方港周辺。