天王山城 陶板「秀吉の道」古い常識人光秀?

天王山城の登攀を目的にナビを設定するに、愚息がやらかしたように、ただ「天王山」と入力すれば、名神高速道路の天王山トンネルを案内されて、気が付けばもはやどうにもならない状況に陥って溜息をつきながら大坂方面へそのまま走る事になってしまいます(その時は「えいやぁ」と開き直って堺に向かいました)。ナビ設定は慎重にしなくてはなりませんね。

 

では天王山城に向かうにはどちらを目的にするのがベストかといえば、それは天王山宝積寺です。

山崎駅踏切手前の1コイン駐車場を利用したことは既報の通りで、そちらからの登攀でお城以外の色々を楽しむことができました。

 

宝積寺の裏に天王山城へ上る案内がありますのであとはカンタンです(画像③)。この城は別名山崎城ともいいますが宝積寺の名にちなんだ「天王山宝寺城」という呼び名もありました。

 

さて、この城に関しては、発掘調査によって「何かが出た」という話は聞いたことがありませんので、殆ど手つかずのよう。

今は一面竹藪様で、京都名物タケノコ農家の管理作業かチェーンソーの音が響いていました。

今後の専門家の調査が待たれるところですが、それだけに未知の部分もありそうで楽しみな城の一つです。

 

秀吉はこの城を破却して大坂城に移っていますが、その残材や遺構に興味がわくところです。

文献によればこちらの本丸には天守があったといいますね。

 

登城にあたっては案内板も各所に設置されていて親切このうえないというところ。

おそらく同じ山にある美術館あたりの肝いりなのか(推測)道沿いには「陶板絵図」なる少々コストが嵩みそうな案内板が設置してあります(全6枚)。

昨日もその1枚(本丸址のもの)について記しましたが標題が「秀吉の道」でそれぞれの副題に秀吉が成り上がり、のしあがっていくきっかけとなった山崎合戦での歩みを記しています。

 

物書きなのか政治家なのかよく知りませんが堺屋太一という堺の商人を先祖に持つという人の文章です。

その6つの案内板の中に「明智光秀の最期<古い常識人の敗北>」というものがありました(最後の画像)。

その文言が一般的に通じるものかは疑問には感ずるものの(人間関係に諸般の事情・機会には人間というものの考えは「まぁ、いろいろある」からです~映画「アンタッチャブル」でカポネ扮するデニーロの台詞~)。

戦況概略を端的に表していますのでコピー転記させていただきます。

 

★明智光秀の最期<古い常識人の敗北>

天下分け目の合戦は、一刻半(約三時間)ほどで終わった。

明智勢は総崩れとなり、総大将の明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。
だが、ここは小さな平城、到底、羽柴(豊臣)秀吉の大軍を支えることはできない。明智光秀は、夜が更けるのを待って少数の近臣と共に勝龍寺城を脱け出し、近江坂本城を目指して落ち延びようとした。

坂本城は明智家の本拠で光秀の妻子もいた。しかし、山科小栗栖にさしかかった時、竹薮から突き出された竹槍に刺されて重傷を負い、その場で自刃して果てた。当時は、普通の村人でも落ち武者狩りに出ることが珍しくなかった。

光秀を刺したのも、そんな落ち武者狩りの一人だった。

享年五十五歳、当時としては初老というべき年齢である。


これより十五年前、足利義昭の使者として織田信長と相まみえた明智光秀は、詩歌にも礼法にも詳しい博識を買われて織田家の禄を食むことになった。

それからの出世は早く、僅か四年で坂本城主になり、やがて丹波一国を領地に加えて織田家屈指の有力武将にのし上がった。

織田信長と将軍になった足利義昭とが不和になった際には、いち早く信長方に加担、細川藤孝らの幕臣を口説いて信長方に転向させた功績が信長に高く評価されたのだ。
だが、光秀は、信長の改革の過激さに反発を感じ出した。

古い常識にこだわる知識人の弱さ、というものだろう。


一方、山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は、時を移さず明智光秀の領地を占領、丹羽長秀や池田興恒ら織田家の重臣たちを配下に加え、「次の天下人」への道を駆け登る。
この間、織田家の他の重臣たちは容易に動けなかった。みな前面には強敵がいたし、背後では土一揆が蜂起した。信長の死と共に、織田領全体に混乱が生じていたのだ。
世はいまだに乱世、将も民も、野心と危険の間で生きていたのである。

ついでに他の案内板も続けざまに・・・(上記最後から2枚目)

★<明智光秀の誤算>

 

 

 

 

 

本能寺で織田信長を討ち取った明智光秀は、織田家の諸将はみな、遠くで強敵相手に対陣しているので、すぐには動けまいと見て、その間に畿内を制圧するつもりでいた。


ところが、羽柴(豊臣)秀吉が毛利と和睦、十日目の六月十日(新暦七月九日)には尼崎まで来たと聞いて驚き、近江(滋賀県)から京都に戻り、翌十一日には洞ガ峠に登った。大和郡山城主の筒井順慶の来援を促すためだ(→ブログ)


明智光秀は、恐ろしい「鬼」の信長さえ討ち果たせば、古い伝統を尊ぶ武将や寺院が立ち上がり、自分を支援してくれると思い込んでいた。だが、そうはならず、あてにしていた組下大名たちも離れていった。親類の細川藤孝や筒井順慶も来なかった。

 

光秀の思いとは逆に、大胆な改革で経済と技術を発展させた織田信長は、豪商から庶民にまでに人気があった。このため「主君の仇討ち」を旗印とした羽柴秀吉の方に多くの将兵が集まった。

 

六月十二日、空しく洞ガ峠を降りた明智光秀は、一万六千人の直属軍を天王山の東側に扇形に布陣させた。

当時は淀川の川幅が広く、天王山との間はごく狭い。

兵力に劣る明智方は、ここを出て来る羽柴方の部隊を各個撃破する作戦だった。

 

同じ日、羽柴秀吉は摂津の富田に到着、花隈城主の池田恒興、光秀の組下だった茨木城主の中川清秀や高槻城主の高山右近らも参陣した。四国攻めのために和泉にいた信長の三男の信孝や丹羽長秀も加わった。総勢三万数千人、明智勢の二倍以上だ。


翌十三日、羽柴方の先手の中川清秀と高山右近が天王山と淀川の間を越えて東側に陣を敷き、秀吉の弟の羽柴(豊臣)秀長もこれに続いた。明智方はじっとしていられない。申ノ刻(この季節なら午後四時半頃)、天下分け目の決戦ははじまった。この日、空は雨雲に覆われて暗く、地は長雨を吸って黒かったという。

 

 

 

★<勝負は川沿いで決まった>

 

 

 

 

 

 

「天王山」といえば「天下分け目の大決戦」の代名詞となっている。しかし、実際の合戦は、天王山の東側の湿地帯で行われ、勝負を決したのは淀川沿いの戦いであった。


天正十年六月十三日申ノ刻(午後四時半頃)、天王山の東側に展開した明智勢が、羽柴(豊臣)秀吉方の先手、中川清秀、高山右近、羽柴秀長らの諸隊に攻めかかった。

天王山と淀川の間の狭い道を出て来る羽柴方を各個撃破する作戦である。

 

だが、戦いは明智光秀の思い通りには進まなかった。

天王山の東側には油座で知られる山崎の町があり、その東側には広い沼地が広がっていた。

この地形が双方の行動を制約、斎藤利三、並河掃部、松田太郎左衛門らの精鋭を連ねた明智方の猛攻でも、羽柴方の先手を崩すことができなかった。

 

その間に、淀川沿いでは羽柴方の池田恒興、加藤光泰、木村隼人らの諸隊が進攻、円明寺川の東側にも上陸した。

川沿いの明智方は手薄で、ここを守る伊勢与三郎、御牧三左衛門、諏訪飛騨守らはたちまち苦戦に陥った。

 

羽柴秀吉が本陣の大部隊と共に天王山の東に出たのは、合戦がはじまって半刻(約一時間)ほど経った頃だ。
天下分け目の決戦は、日暮れた後に終わった。破れた明智光秀は勝龍寺城に逃げ込んだ。

その頃、秀吉は天王山に登って戦場を見下ろしたかも知れない。~

 

本丸址のスグ下には数基の墓石・供養塔がありました。戦闘に関係があるかは不明ですが、こういう場所の墓石はまた格別です。

④の合戦址の石碑も中腹の⑤の秀吉が全軍奮起の旗を掛けたと伝わる松の近くに見られますが本戦地は直下の川沿いということです。