筒井順慶 風見鶏と揶揄された人

当山築地塀の「犬走り」風の段に敷き詰めた砂利を近所のガキどもに・・いや失礼・・お子様たちに、ぶちまけられたものを掃き集めて、石の選別と水洗を重ねて約2時間の作業。本日は半袖にならなければ相当応える、「温かさ」を通り越した「暑さ」でした。

静岡に限って28℃もあったのですね。

 

 私が子供の頃そうであった、他所の寺の境内で悪戯したり大騒ぎした時、坊さんに鬼の形相で箒を持った手を振りかざして追いかけられましたが、やはりそうすべきなのでしょうか。

現代は大人が他人の子供を叱りつけないといいますね。 

数日たてば元の木阿弥、空しい作業です。

 

「元の木阿弥」の語源は明智光秀と羽柴秀吉の山﨑合戦前の「日和見順慶」で有名な興福寺の坊さん大名、筒井順慶が思い浮かびます。史実は違うようですが・・・。

 

 さて、順慶の幼少の頃父の筒井順昭が病死しますが後世を心配した父は自らの死を内外に隠せと遺言を残します。

クロサワの「影武者」は信玄でしたがこれは筒井家版です。

順昭の影武者はやはり姿や声がそっくりでかつ盲人だった「木阿弥」が選出されました。

これは浄土系の流浪僧のイメージもありますが、市井にある一般人から選出して名を「僧」の如く改めさせ殿中に上らせるというウルトラCの可能性が強いです。

室町幕府将軍義政が職人や芸人と気軽に対話ができるように彼らに「○○阿弥」の如く名乗らせていましたね。

その木阿弥を寝室に伏せさせ筒井順昭健在をアピールしたのでした。

当時領主が没し跡継ぎが幼なかったりすれば周辺国にいいように付け込まれましたから。

特に当家との永年のライバルはあの松永弾正久秀でした。

ちなみに順慶は信長の先鋒となって本願寺を攻めていますので私は松永久秀好きです。

 

 

 三年後、無事に順慶が成人したため、筒井家は順昭の死を公表し、木阿弥は御用済みになります。

「城主で殿さま→元の木阿弥(乞食坊主)」、「元に戻った」という話です。

大抵は「良くなって→元通り」のことを言い「残念」の気持ちも相当入っている言葉です。この手のストーリーは色々な形で内外に残っています。

 

画像は築地塀と砂利を敷いた部分。

これからの季節、夜間のパトロールは肝心です。

この道は夜間滅多に人は通りませんが、飲み屋ストリートから波津街区への抜け道になるため酔っ払いのトイレと化します。

勘弁してほしいというのが本音ですが、如来さんはきっと

「お前も今まで人に何かしら迷惑をかけて生きてきた、これからも勿論そう生きるのであろう 許してやったらどうや」

といったところでしょう。

あー流行りの防犯カメラを付けようかなぁ・・・・

きっと効果あるでしょうね。