シーズン 是非行ってみたい 世界の桜   比丘尼城 

欲を出して「少しくらいは大丈夫だろう」くらいの気持ちで山中彷徨って「ミニ足元不明すわ遭難?」となったのがこの山。

遠州西端の井伊谷と三河を境とする富幕山山系について何度か記してきましたが、ざっと言えば「金山」「雨生山」・・・というように尾根続きになっています。

ただし現在は画像⑩の如く山が削られていますのでその尾根行程は不可に近いでしょう。

 

画像⑫の国道301号は東名三ケ日インター方面から新城へ向かう山道です。その道を使用し⑪の通り宇利峠の北側の平たん地「中宇利」へ向かいました。

301号からさらに西に延びるこの山系が⑪の通りとなります。

「中宇利」には新東名高速、今は新城を使用すればカンタンですが、以前は例によって浜松いなさで降りてから新城方面へ向かい道の駅「鳳来三河三石」、柿本城の先、「山吉田」交差点を左折して山道を進んでもこちらへたどり着くことができます。

 

古城の名で「仏教的」で「いかにも・・・」を思わせる名は結構ありますね。

当流先達の一向衆築城説のある京都の阿弥陀ケ峰城や関ケ原近くの菩提山城などですが、こちら遠州三州国境の地、雨生山の北側の宇利部落の平たん地に至る台地には比丘尼城があります。

先日も熊野比丘尼の「比丘尼」について記しましたがこの城についての詳細はわかっていません。

 

例によってこの城に取り掛かるべく駐車場に車を停めると、この山の「売り物」である「世界の桜」をメンテナンスに来ていた地元の方たちと遭遇しました(場所はここ)。

私の目標はどちらかといえば「墓」の方にウェイトがかかっていて、その城の名に惚れてこちらに来たわけで、五輪塔類の有無を尋ねました。

 

そういう場合は、まず期待通りの回答は得られないというのが通常。しかしこの時は「それならあるある」とわくわくするような返事をいただきました。

以前林道を作った際に、五輪塔がゴロゴロ出てきて、それらをまとめて積んだ場所があるとのことでした。

 

ただし場所は「説明しきれない、難しい」ということでしたので「えいやぁ」で登攀にかかったのでした。

午後も13時を回っていましたが、比丘尼城については難なく登頂完了し、ボランティアでやってきていた人たちがいう「五輪塔の並ぶ場所」を探索に向かいました。

林道わき、川の流れの近くといったフレーズを頭に残していましたのでそれを求めて山中へ。

 

ところがどっこいどこを探してもサッパリわかりません。南側の三ケ日側に降りてそちらの林道(おそらく⑫につながる)へさらに足を延ばそうかとも思いましたが、体力的な不安と酷い寒さで躊躇反転、尾根を東に向かって遥か真下の採石場の禿山を見て断念したというところです。

日没も近づいていて来た道もわからなくなってしまいました。もし、ここで足でも挫いたら・・・と想像してしまいましたが、そうなれば「奥の墓道氏に連絡」→「警察に通報」→「遭難情報」→「捜索隊の編成」→「人騒がせなニュース」となって大恥をかくことになることは必定。なんといっても「普通の低山」に見えますから。

日没して真っ暗ともなれば山中は歩けません。あの軽装備、あの寒さで「ビバークなんて冗談じゃあない」と気合を入れつつも尻尾を巻いて下山しました。ちなみに各林道入口は鎖がかかっていて車両では上がれません。

 

下山地場所は危険を冒さず林道(滝堂線)をそのまま下りましたので比丘尼城登城口より1キロほど西にそれていました。

山は降り口を誤ると元の登城口に戻るのが辛いですね。

このときの不安からショルダーバックにはミニ懐中電灯と非常食(お菓子のグミ)を放り込むようになりました。

 

「比丘尼」という言葉からしてこちらも「女城主」を連想しますね。城主の奥方が主人の死亡のためやむなく一族を率いて城主としてあったためなのか、北側に宇利城というこの城の本城らしき城があってそちらの補助的あるいは避難城として女子が入っていた可能性があります。

「比丘尼」となれば僧籍を連想しますので、男たちは討死して当然の如く出家したということか、女子たちも討たれて「仏」となったのか想像の域を出ることはできません。

 

室町初期頃より整備され、戦国期あたりまで入れ替わり立ち代わり各勢力による改変がされているようです。

①は中宇利交差点からの比丘尼城方向を見た図。黄色円の構造物が目立っていたので、それをこの目で確認してやろうという気持ちにもなりました。⓼が背後に迫った図。どうやらアンテナのようでした。今年の桜が咲いた頃に、時間があればこちらを目標にしたいものです。下の画像上段3点は比丘尼城から新城方向と下③宇利城方向を見た図。下⑤が雨生山北側斜面に散見された人工構造物(崩落石垣)らしき状況。

私の推測ですが、これを見て引佐の新旧ふろんぼさまを思い出しました。

この石垣を結界にして、壇上に五輪塔があったことが想像できます。私はしきりにこの下方を探索しましたが、それらしき残欠の発見には至りませんでした。その名の通り「雨生山」は乾季にもかかわらず湧き出る水は豊富の様でした。