「山吉田」は海の吉田(豊橋)の対   柿本城登城口難解

地方交付税の不交付を継続中、余裕の優良自治体といえば牧之原市のお隣の吉田町(榛原郡)です。

たくさんの大企業が集まっています。

勿論大井川の豊富な水量がポイントでしょう。

 

そして、全国にも多くの「吉田」地名がありますが、現在自治体として「吉田町」の如く名のっているのは唯一とのこと。

 

「よしだ」とは「良田」。肥沃で美しい田んぼ=リッチな場所からその名が来ていることは言うまでもないことですが、大井川という大河の恩恵ですね。

 

大河があるということは洪水という強大リスクとの共存ですので、ただ立地的に良好であることを羨むだけでなく、歴史としてそこでの苦労や、対応力のすばらしさをも考えなくてはなりません。

その結果として、美田を残し、良好な繁栄をもたらしたのです。

 

吉田町といえば私の記憶では養鰻池だらけの町というイメージですが、今やウナギ産業は衰退の様。

先般も地元企業が輸入ウナギを国内産と偽装した件が表に出ていました。そのようにこれまでの既成産業の衰弱の中にも関わらず、吉田町が元気なのはやはり大河のおかげなのでしょう。

 

ただし、私はあの小山城に関してはいつ見ても「グロテスク感と恥ずかしさ」の感、禁じえません。余裕があるからといってあからさまなウソはいけませんね。

 

さて、先日のブログで井平城裏の古道の石標について記しました。標識右の渋川、同左の「山吉田」とありました。

またその道標のスグ上方にあったふろんぼさまの墓の被葬者が顔面に銃弾を受け二十二歳で亡くなった鈴木権蔵重俊でした。

重俊が同行したのはおそらく彼の甥っ子で頭首の鈴木石見守重好。彼ら一党が居た城が山吉田城。別名柿本城でした。

 

この城も国境の城ですが、鈴木家は井伊と友好関係を保っていましたので、元亀三年の佛坂戦に向かう寸前、武田の別働、山県昌景隊の襲来に籠城戦となっていました。

 

ちなみに城の名の「柿本」も「山吉田」も地区の名称として残っています(場所はここ)。

この山吉田は「山の良田」という意味もありますが、本家「吉田」の「山バージョン」という意味の方が強いでしょう。

その「吉田」とは三河渥美の吉田城(今橋城)の吉田です。

紛らわしいですが豊橋のことで大河、豊川が流れています。

 

山吉田の方はといえば長篠に流れる宇連川に合流する黄柳川ほか幾筋もの河川が流れ込む場所。きっと古くからその流域は肥沃な土地があって、良田が広がっていたことでしょう。

 

山吉田城(柿本城)への登城ですが、ハッキリ言ってどこから取りついていいか迷いました。①の案内板は道を歩けばスグにわかります③。山城の南面に流れる川は天然堀の跡と解します。

登城口探しに北側裏山に回り込みましたがこの城のあまり大きくない、尾根伝いに間延びしている姿はわかりますが、一向に登城の道は見当たりません。

 

最初の掲示板に戻って南側の道を歩きますが・・・サッバリわかりません。

ということで直接聞き込みを始めました。

勿論、一般住居に向かっての突撃訪問です。

都合3人の方にお聞きしましたが、地元の方でも「殆ど行く人はいない」「大分変ってしまった」「草ぼうぼうで入れない」といったネガティブ情報ばかりでしたが、ついに「秘密の登城口」を聞き出しました。

 

これは以前と変わって山の麓を取り巻くように家々が並び建ったために、単に登り口が隠れてしまっただけなのでした。

住居と住居の間の細い路地を入って抜けた場所が⑤⑥の図。

⑤は④図の右奥となります。⑤の「カラス?のフェンス」が目印です。

山に取付いたら⑦、ご注意を。登攀路をしっかり目視しないと深い藪に入り込んでしまいます。⑦から数mで右に折れる道を確認してください。

とにもかくにも冬場探索オンリーの山城です。

本丸にはちゃんと石標が建っています。

「鈴木長門守重勝之城址」とあります。その息子が重時でその息子が重好になります。

 

山吉田、柿本城途上口もわかりにくいのですが、ここ鈴木の一党の羅列もややこしいところです。

歴史上の登場人物の名を覚えることは記憶力の劣っている私のお頭にも難題きわまりないことです。

みんな忘れてしまいます。右から左に・・・

 

※現在の柿本城本丸にはカンタンに行ける道が整備されています(→ブログ)。