パターン化「恐恐謹言」「参  まいる」 脇附

とりあえず手紙やメールがダイレクトで宛先に届くという概念は捨ててください。

これは現代の私たちが信書としてそれも短時間(メールだったらもっと早い!!)に通信ができるようになる以前の時代のお話です。

 

違いはあったでしょうが、現代の郵便事情と同様に案外しっかりした信書配達の方法は出来ていて、まずは発信人の意図は先方に届けられていたことは確かだとは思います。

修験漂泊の旅の僧らが第一に浮かびますが信用できる自前の配達人というものを用意していたということです。

 

ある意味ダイレクトメールと同様で、その者が配達を終えて無事手前まで着到し報告を受けることで信書配達の確認をするというシステムでしょう。

よって配達の者が帰って来なかった場合(大抵は返書を持参)は先方到達が出来なかったことを判断したのだと思います。

 

大名間の伝書の場合は「家組織と家組織」間はダイレクトであってもトップとトップ直接ではなく、そこにはその中間(中間-ちゅうげん-という語もありました)で色々な家臣たちの取継ぎ引き渡しがあることは当然のこと。

時代劇中でも散見しますが野戦陣中での書面のトップへの上進が配達人によって直接なされるような場面など「ウソだろ?」という気になりますね。まして平常時になどは「直接手渡し」は有り得ないことと。

 

「口がきける」という言葉がありますが、当時の身分制の雰囲気では直接会話ができるのはトップを囲む僅かなとりまきと家族くらいの者だけ。

「配達人」は先方様家中の一番下の身分の人を探して程々の身分の人への「取次ぎ」を依頼するというのが段取りでしょう。取り継がれた者は順繰りに各上司に伝達していき最後に無事、トップの城主や御屋形様の手に届くということになります。

極論を言えば「止ん事無き人」は、言葉どころか顔まで「出さない」というのが流儀でした(組織の大小ありますが)。

 

時代劇で殿さまが下っ端の使い走りや町民等に「気さくに」話しかけるなどは劇中のウソ。役どころの性質「人情・好感」の演出でしょう。

これは室町将軍義政が植木屋や庭職人と直接会話ができるよう、出家名、乞食坊主の名「○阿弥」とそれぞれに与えたのもその手の類です。坊さんだったら会話はOKの流れからです。

今年の夏は例の玉音放送を耳にした方が多かったと思いますが、それまで天皇の声を聴くなどということは異例中の異例だったわけですね。

 

要は「ストレートに、ダイレクトに(・・・直接に)」は「大きな失礼」とみなされていたのです。

直接顔を見ない、話さないは勿論、相手の名を全部記さないことが最大の敬意。

これは先日記した曳馬城の江馬氏の二人に家康が出した起請文の差出人と受取人の「省略」を見てわかると思います。

「松蔵」は家康自身の事ですがあの受取人の明記は今で考えれば唖然というべき簡略です。

しかしこれが最大限の謙遜と敬意のあらわれだったのです。

 

   永禄九丙寅二月十日

    江安              松蔵

    同加

     参(まいる)

 

そこで「参」の一字あるいは「まいる」。

これは手紙の受取人のあとに記す「脇附」の一種で、江戸期以前の手紙文でよく見かけます。

その人に「直接宛てて出したのではないものだ」という意がそこにあります(その意であっても)。

手紙にも「直接」には違和感があったのでした。

 

とにかく手紙に関して殊に差出人は自分を卑下し、謙遜する姿勢を示すというのがマナー。

「脇付」をしておくことは相手の心証を配慮しても無難で賢明なことでした。


下記は江戸期の「脇附」について記したものです。

 

脇附(「大言海」)

 

書状ノ宛名ノ左下ニ記ス文字。

身分ノ等級ニ因リテ、「参人人御中、人人御中、御宿所、進覧、進之候」ナドト次第ス。返書の脇附ハ、「尊答、貴報、御報、御返報、御返事」、ナドト次第ス。下輩ヘハ、脇附ナシ。

 

「下輩ヘハ、脇附ナシ」とあるようにここでも脇附の有無によって受取人がどのような立場にある者かが推測できるのです。よって上記家康が江馬両人宛に送った手紙には最大限の敬意が含まれていることが察せられるのでした。

対今川の城として家康の曳馬(浜松)城への重要性とその意義が伝わってきます。

 

その「参」の一字は「まいる」と読みます。

その「参」という字もやはり省略語。

これは「参人人御中」(まいるひとびとおんちゅう)の略とも「参人人其外御供中」(まいるひとびとそのほかおともちゅう)「人人御中」などバリエーション豊富

 

「直接宛て人に出したのではありませんよ」という表明だということがよくわかります。

今でも会社等担当者が不明の場合などに出す手紙の宛先に書く「御中」の元となった語ですね。

これは「参」ではなく「人々御中」の方が残ったということでしょうか。そして「人々」の方を省略して「御中」。

 

他にも「侍史」とか「御侍史」(おんじし)という脇附もありますが、この語は今でも使用されているとのこと。

特に町のお医者さんが大病院に紹介状を記す際に使っているようです。

この語の意も元は「直接では無く祐筆を介して」の意だそう。

 

表記「恐恐謹言」などは戦国武将や江戸時代小大名の手紙の結びに「参」以上に頻出する語ですが、これも最大限の「謙遜」であることも読んで字の如く。

「恐れながら恐れながら、つつしんで申し上げる」という意ですね。「恐惶謹言」と同意。

 

ただしこれらは「スペシャルワンパターン」であることも確かで、最大限の敬意ではあるものの、手紙文形態の最低限のマナーでもあったわけです。

 

日本の「謙遜の美学」がここにあるのですね。

東洋的ともいいますがこれが日本人の血にも流れていてコレを逸脱した瞬間、もしくはその「雰囲気」を醸し出した人に対しては衆人(「人々」)も反目するのです。

しかし謙虚はそれが過ぎると慇懃となり鼻に付くもので、むしろ隠れた不純な動機まで疑われることもあります。

その微妙なバランス感覚がこの国の文化に培われてきたものだと言ってもいいのかも知れません。

 

時代も変わって今は人々の心は「謙」が廃れて「満」「慢」の一途。

「満」が幅を利かせている世は嘆かわしいことであります。

 

画像は

「竹中丹後守宛 徳川家康書状」(関ヶ原歴史民俗資料館)

慶長五(1600)9/15関ヶ原合戦で敗走した小西行長は伊吹山中にて捕縛されて竹中重門に引き渡されます。

重門は9/19に行長を引っ立て家康の元に。

そこで家康からの感状がサラっと。

 

小西摂津守召捕給候、被入精段祝着之至候、

         猶期後音候、恐々謹言

         九月十九日   家康(花押)

            竹中丹後守殿

「猶(なお)後音(こういん)を期(ご)し候」も定型文。

「後音」は「あとで」ですから「ごきげんよう」「またこんど」でしょうか。

印判の印文は「忠」でした。

 

こちらの方は「恐々謹言」。

②③は江戸時代に入ってからの文書で②「人々御中」

③「参人々御中」と「恐惶謹言」。