謎だからこそ妄想がはたらく 小西行長の菩提

駿府に入った大御所家康の趣味はやはり「薬」のようでしたね。どちらのドラマの場面を見てもそのあたりのまったりと薬草を煎ずるその姿を演じさせていました。

やはり健康寿命こそ天下取りの秘訣だったのでしょうか。

ライバル「大坂」の関白様はその死によって家は滅亡の道を歩みましたね。長生きしないと「その後のこと」も迷惑するということ。次代をラクにさせるということですね。

ちなみに次代が確り自立したあと投薬、栄養剤の寝たきりで命永らえたとしてもまた「迷惑」。難しいですね。

何よりも「健康で長生き」を目指してください。

 

推測ですが家康の薬好きからして実は才知にたけた小西行長には一目を置いていたのではないかと思います。

薬好きの家康からしてみれば薬屋小西の知識は貴重でしょうし彼の朝鮮半島での武勇は耳にしていて敵にすれば手強いことも予想していたはずです。

小西の東西選択の最終的判断は「古くからのつきあい」の方にウェイトがかかったのでしょう。石田三成は秀吉時代に堺奉行として堺に居たことがありました。そこで堺の利権と豊臣軍の水軍を整備していくことになりますが、その「水軍」に接点があったでしょうね。小西家の財は水運で築いたといっても過言では無かったはずでした。

 

家康は関ヶ原直前の奥州征伐では大坂残留組であったことも石田・大谷グループに勧誘される要因になりましたが、関ヶ原に赴いて自分に反旗を翻す小西を見てさぞかし地団太を踏んでいたでしょう。

駿府の家康が小西の義理の娘「ジュリアおたあ」を引き取って身の回りの世話をさせようとしますが、心底には小西家の薬に関する秘伝のようなものを得たかったのかも知れません。

 

関ヶ原後の小西行長は伊吹山中に隠れますが捕縛されてから市中を罪人として引き回されたうえ六条河原で三成や安国寺恵瓊らと一緒に土壇場にあげられたといいます。

首は勿論、「三尺高い木の上」(さらし首)。

首はある程度の時間が経つと警備も手薄になり人の目からも飽きられて忘れかけますがそんなとき大抵その手の世界の暗黙の了解だったのか首はどこかに忽然と姿を消すというのが歴史のならい。

 

あっちに飛んで行ったとか、こっちに飛んできて悪さをしたとか、縁者の誰彼が夜陰に乗じて持ち帰って供養したなどの逸話がつきものですね。後者の場合、バレれば御咎めを受けますので当然に「こっそり」です。すべて推測、史実は闇の中なのです。

人々が色々な事を言えば言うほど胡散臭い話になるものです。

 

さて、先日来竹中半兵衛の故郷、菩提山城の麓、岩手(現岐阜県垂井)について記していますが、あの地にには私の知る二つの小西行長の墓があります。

噂では一つがダミーで今一つが本物といわれますが本当のところはわかりません。

 

そもそもアウグスティヌスという洗礼名まで名のるほどの小西やその縁者が仏教寺院に葬られることを希望する筈はありませんので、かなり無理がある話ですが、後世に作られたものであっても本当に小西行長の墓を意図して作られたのであるならば理由としては、竹中家(重門)の懺悔説が有力です。

 

関ヶ原敗走後伊吹山に潜伏していた小西は捕縛されるのですが、その際に関わったのが竹中家中、重門配下の探索隊でした。

そこでの降参と身柄について交渉の際、竹中側との条件があったのかも知れません。そしてそれに関する竹中側の反故があったのか、結局は問答無用の罪人扱いによる斬首という流れとなってしまったというのが推測です。

 

本当ならこうしてやりたかった、しかし徳川戦勝グループの意向に折れて、(約束を破って?)小西を見殺しにしてしまったという悔恨だったのかも知れません。人を雇って密かに三条河原から首を持ちださせてこっそりと供養したあげたいという気持ちが沸き起こったということですね。

そもそも竹中重門は一時的に石田三成らの本陣、大垣城に詰めていて、寸前ドタキャンして家康側についたという経緯がありましたし、戦前に重門と小西との間で何か重門の心に残るような交流があったというのも考えられるところです。

 

さて二つの墓の前者、明らかに嘘くさい方が禅幢寺にあります。

竹中家の菩提寺ですね。

このお寺は竹中重門が菩提寺とした寺ですが、その立ち並ぶ墓石群の中にあります。建てられた経緯も判明していて時代の銘も昭和18年、あり得ないほどあり得ない代物ですが、極論ですが誰が誰の墓を築こうが、礼拝の対象にしようが自由でした。

事情は竹中家家臣の末裔(建碑者は石河萬吉)が、当時のその家に不幸が続いたと理由だったそうです。その不幸続きは数百年も前の事件の崇りであるとのこと。そういう先祖への畏怖は現代人が忘れていることですから必要とは思うのの少々考え過ぎか。

あの時、小西に対する竹中家のいったい何がいけなかったのか、知りたくなりますね。


そして本命は・・・

「戦争は罪悪である」の竹中彰元さんの寺、明泉寺です。

観光地ではありませんのでご住職に案内されなければこちらへの参拝は無理。竹中家だけに「(竹)藪の中」ということにしておきましょう。


画像①②が禅幢寺の小西行長の墓碑。正面からも判読可能です。裏面の「石河」家とは鏡島石川(河)の系統を推測します。

そして以降が明泉寺さんの伝小西行長の墓です。最後が本堂。


墓碑というものはそもそも石材で作るのが習いですが、素材としてやはり「未来永劫」は期待できません。石材にも当たり外れがあって早い時期に劣化自然粉砕することもありますし、人為的に壊されたり、明治期の道路政策で砕石として利用されたり色々。「作り直し」は当然にあります。よって銘が新しいからといって再建の可能性もありその真偽を疑うというのも尚早なのです。


ということでこちらの建碑は

「文化五年 竹中太郎五郎 某の建」とありますので、西暦は1808年。相当時間が経過しています。

そして何より小西の「この字」も入っていません。

しかし竹中家に伝わるのは小西行長の墓と。


概略

不破河内守の家臣 椎野荘内 衣斐多門 の二将の墓 

命を受け我らを襲ったがうまくいかず殺された

ここに哀惜し墳を建てる


これが「何故に」といえば、まあまさかあの時代に「小西行長」の墓ですとは記せなかったと。幕府にバレたら「二心あり」と攻めたてられてただでは済まないような状況に追い込まれることは必定です。表向き菩提寺の禅幢寺など置くことはリスキー。元の菩提寺明泉寺のそれも境内墓域ではない、誰にも近づけない藪の中に葬って密かに弔ったというのが伝わるところでしょう。


また不破河内守とは西美濃国人不破氏系のことで不破光治という人は、半兵衛の奥さんの父親で稲葉山城攻略を付きあわせた安東守就(もりなり)らと西美濃四人衆と称された斉藤家家臣団の一人で斉藤家につき従った家です。

よって関ヶ原以前のかなり古い、誰も知らないような戦話を持ち出してその墓碑としたことも「怪しすぎる」といわれるところなのでした。


ここは竹中家口伝の通り、「小西行長の首塚」と考えるのが一番おさまりやすいところだと思います。