中山道、長良川の抑え  鏡島城  石川家のそれぞれ

木曽山中から濃尾平野に向かって南西方向に流れる長良川は金華山を左手に見てしばらく、急激に真南方向に方向を変えて、他の二つの大河、木曽川・揖斐川と並行し、あたかも申し合わせたが如くその到達点である伊勢湾に注ぎ込みます。

その南に方向を角度を付ける場所が鏡島ですね。

 

当地に最初に住したのは石川氏。その一流が承久の乱の軍功で地頭職を得て美濃の地に来たという説。その「石川」は平安末期の奥州征伐(前九年の役・後三年の役)の際、源頼義に従軍した清和源氏の流れが陸奥国石川にそのまま土着したとあります。

長良川の渡しと湊の整備はじめ、水難で荒れた乙津寺の再建とその寺を中心にした鏡島の地の繁盛に石川光清という人の名が登場しています。

 

その後土岐氏、斉藤氏等戦国化した大名家の配下として家を存続させて、この辺りの小豪族の歩んだ道に違わず、信長―秀吉の順で主家を変えて従がっていったという歴史がありました。

 

私が個人的につい目が行ってしまうのは私と同じ「一光」を名のる「石川一光」という人がいることです。

その名は戦国期にあまりお目にかからない名です。

ただしその名は私と同じではありますが、彼のその戦働きでは目を見張るものがあったそうです。

 

豊臣配下となった石川家は秀吉の出世とともに頭角を現すことになりますが、その栄華のベースとなる「伝説」を残した人でもあったようです。

その戦いとは、秀吉の天下、手中収めることをほぼ決定づけたという「賤ヶ岳」です。


賤ヶ岳といえば戦後囃される「賤ヶ岳七本槍」と称された武将たちが居並び、彼らはその後の出世街道にお墨付きを得たのですが、彼「一光」もそれ以上の槍働きをしたそうです。

そのベスト7に選出されなかった理由は討死。

存命だったらそのナンバー1にも挙げられたかもしれない働きだったといいます。ひょっとするとあの福島さんは次点だったかも・・・

 

ということで、御当家は秀吉からますます目にかけられて引き立てられていきます。死したといえ賤ヶ岳の勇者の出た家を放置できる筈がありません。

一光の父は石川光重。その三男です。そういうことから父光重もまた二人の兄(光元、光吉<貞清>)、弟頼明もすべて秀吉に引き立てられています。

 

秀吉恩顧という当家はやはり当時の各家の存亡にかかわる「関ヶ原」に遭遇した際、嫌が応にもその命運を分けられることになります。

播磨龍野城主の長男石川光元、犬山城主の次男の石川貞清は勿論西軍、四男石川頼明(忍者大名・・・)などは秀吉からの6500石弱から三成に12000石まで引き上げられて、「関ヶ原」では西軍の立花宗茂に属して大津城攻めに従軍しました。

結果すべて関ヶ原以降改易の憂き目。

 

人徳だったというか本戦参加型で切腹を免れた石川貞清は例外の人です。木曽衆を仕切っていた貞清は多くの裏切り離脱を受けたのですが犬山城内の人質には手出ししなかったという美談がありました。それに関して池田輝政の助命嘆願があったとのこと。

私財の没収も無かったという無罪放免でまさに異例中の異例。まずは「カネで解決」(罰金刑?「黄金千枚」の支払い)して自身は京へ。のち金融業に転身して財を成したそうです。

 

しかしすべてが歴史から消えたわけではありません。

長男石川光元の長子石川光忠は母親お亀の方が家康に出仕していたという縁で呼び出され、尾張藩にて存続しました。

また一光らの父、光重の兄の石川光政も秀吉に仕えてましたが、この系統も経緯あって家康に出仕しています。

残存石川家双方とも「石川」から「石河」へ変更しています。

 

何とかなるかならないかは、「思いやりとタイミング」でありました。

後者は難しいものがありますが、前者は私にもできうることであります。

 

鏡島城は平城であって現在は住宅街に変貌①。城址の面影は皆無です。住宅街に石碑と看板が(場所はここ)。

稲荷神社の南側になります②③④。

画像は石川光清の墓⑤⑥⑦。周囲の石塔は石川家一族のものでしょうか。荒々しい削りで自然石に近い加工。石質も形もオーソドックスな五輪塔とは違う個性的なものです。

 

そして馬淵与左衛門の墓⑧。岐阜城主織田秀信の命で鏡島の湊を差配した人です。その墓のお隣さん、現代の墓石の施主名が「馬淵」さんでした。