「戦争は罪悪である」  竹中半兵衛の血脈 

「歴史(人の生き様、死に様)は繰り返す」といいます。

有史2000年程度の時間の経過で、人間が格段に進化するとは考えられませんので文化文明の進歩充実はあってもその平均化した行動傾向は殆ど普遍的。

ということで人間の行動は似たり寄ったりで所詮「同じことの積み重ね」とも言えるかも知れません。

 

同族間のうち、多種動物に比べてより好戦的である人類はそれでも「恒久平和」、「不戦社会」をスローガンとして標榜してきたものの、実はそれを成就してはいません。

弱者が強国の拡大路線に飲まれ、あるいは貧富の差が拡大した結果としてその反抗勢力となって暴発したり、いまだ宗教間の人種対立等から、どこかしらで大なり小なりの戦争が継続しています。

 

人間は本質的に闘争的であって排他的(人殺しが好き)、協調性が欠落して多民族には非友好的であると一言で断ずることは宗教者として、それは恐ろしいことですが、考えてみれば「であるからこそ」仏教というものが発生、発展していったのかとも思えます。

仏教徒はそれら排他的行動は控えるべきで、そもそもその思いの元凶こそが煩悩の為せる業であるとの教えが流布されていましたが、それでも世界各国の歴史の御多分に漏れず「戦争」の繰り返しがありました。

 

戦争(公然・公認の殺人)というものが、そのように「繰り返す」性質のなのであるならば、破滅的未来を惹起させないような未来を求めるべく平穏無事を願わなくてはなりませんが、これも歴史の通り、好戦的政治家の出現等があると往往にして、それを追認していく風潮に流されるというのも人間でしょう。

 

仏教界くらいはその「人間の性」へのストッパーにならなくてはいけないのですが、やはり仏教者も人間、究極の選択とも言っていい公認殺人の是非において、「お国」の「右にならえ」の号令があるとその弱さを露呈して、無能化するものでもあります。

 

中には、「矛盾」の壁にぶち当たることを承知して、経典そのものを隠し、抹消するなどの行為<当流親鸞聖人の「御伝鈔」の中、「主上臣下―しゅしょうしんか、法に背き義に違(い)し、忿(いかり)をなし怨(うらみ)を結ぶ」の一節が拝読禁止>に及んだ例もあるなど、その教え(不殺生)に対しての自己矛盾解消に有り得ぬ選択肢の方向性に頭を割いていったという歴史がありました。

 

当流大谷派の僧、竹中彰元師に関しては、本山としてはタブー世界に居た方です。かつて拙ブログにてもその名はお知らせしていたと思います。

話を簡潔に記せば・・・日中戦争開戦後、本山大谷派としては国の協力要請を承諾・・・戦争(殺人)を暗黙に承認していたのですが、末寺の寺の住職であった師は、寺の集まる集会で「戦争は最大の罪悪」と論じた事を、他の僧侶にチクられて逮捕、僧位最下位に降格されて布教使の資格の剥奪という憂目にあうことになりました。

ただ、「人殺しは罪」と言っているのと同じなのですが「国の主催する人殺し」に関しては「賛成」しなくてはならないという、その時代に生かされていた人たちに対して切なさを感じます。

 

師の素晴らしさは、仏教の教えの本質を曲げず、僧侶としての意思を貫徹したということですね。当時治安維持法と特高警察が特権を笠に肩で風を切る時代で、「思った事」を公言することは憚られる時代でした。

 

師は敗戦後の1945年に亡くなるまで、その復権に全力を注ぎました。しかし「宗派声明」として公開した謝罪と、処分取り消し、実質の名誉回復は2007年で処分から70年目だったとのこと。

少々遅いのイメージはありますが、「ごめんなさい」ができたところは当流のイイところですね。

 

私は師とその件については存知していませんでしたが、かつてNHKの「戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~」という番組を視聴して初めて知ったのでした。

 

参考までにその番組の紹介をコピペすると・・・

 

「日中戦争がはじまった1937(昭和12)年7月、大多数の宗教者が戦争に協力していく中で「戦争は罪悪 この戦争は侵略である」と説き、検挙された僧侶がいた。

真宗大谷派の高僧・竹中彰元。警察の追及にも信念を曲げず、本山からも布教使資格のはく奪処分を受けて、1945年にこの世を去った。

 

長らく忘れられていた彰元の行動が再び脚光を浴びたのは70年近くが過ぎてから。300ページにおよぶ当時の取り調べの記録が寺でひそかに保管されていた。そこには、事件当時の関係者の証言と共に彰元の信念も赤裸々に記録されていた。地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、去年10月、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行う。彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった。

 

本来「殺生」を禁じた仏教界はなぜ戦争に協力したのか。そして竹中彰元師はいかにして抵抗の信念を貫いたのか。発見された記録や関係者への取材をもとに描き、これまであまり取り上げられなかった「宗教者の戦争責任」について考える番組としたい。」

 

でした。

師の生まれは美濃国岩手村(現在の岐阜県垂井町 場所はここ)の明泉寺でそのお寺の住職。真宗大谷派ですね。

 

ここでお気づきの方がいらしたら・・・そう、その通りです。

軍師竹中半兵衛(重治)の町、垂井の竹中陣屋と目と鼻の先の寺の住職でその名も竹中彰元師。

秀吉が三顧の礼で招聘した無欲(稲葉山城攻略)の天才軍師半兵衛の御子孫だったのでした。

十七代目の現住職によると三郎左エ門(兄)と六郎左エ門(弟)兄弟の兄の系統が真宗寺院、弟が武家の道だったとのこと。

 

 三郎左エ門(兄)―六郎左エ門(弟)

    |                    |

        二代               重元

      |                    |          

          三代     半兵衛

    ・

    ・

   十四代彰元

   十五代界雄

   十六代信雄

   十七代真昭 現在 

 

また彰元師には子供が無く妹の多喜さんと右門の子を十五代界雄として継承させたとのこと。

 

境内からは菩提山城本丸が。