カラスがきたりて落ちて死す  宣誓は起請文に 

先日来のデザイナーさんのコメントの中の「パクリはしていません。したこともありません(勿論これからもしません)」()を見聞きして思いました。

アレは主観的な宣誓ですね。

要は口で言っただけで、担保する者がない「信用できない」の部類です。私なども日々常にそんな適当な事を連発しているような気がしますが「それは脇に置いておいて・・・」

 

よってあの手の追い詰められた状況において発せられた「言葉」というものには信憑性なく疑義を感じられてしまうものなのです。これは必定。

テキトーな事を言ってのその場しのぎと。誤魔化しであると「勘繰られる」ものなのです。

見ている者にとっては、軽々しい言葉の羅列にしか感じられることはないわけで、却ってそこに胡散臭さを増長させてしまったのでしょう。感覚的にです(真実は神のみぞ知る)。

 

そのような場合、古来より日本人の固い宣誓や約束事にはまず、「証人」として第三者を多数登場させ、ウソが無いことと正確な約束の順守を誓ったものでした。

言わばその古い慣習が日本人の中に流れているのです。DNAでしょうね。

 

古くから日本人には「絶対にウソ偽りの無い」ことをできる限り示そうとする「努力」というか「命を懸けても」という真摯な「誓い」というものがあったのです。

それが「起請文」の発行です。

明治維新を通した近代化というものはおそらく人々の「その部分の消滅」を顕著にした時代ですから今の私たちには相当の違和感というものがありますが、それは至極真面目な重大事案であり最大の「誓約」担保の条件だったのです。

 

あのデザイナーさんにそれをヤレとは言わないまでも、どうやらその考えは日本人の身体に流れていると同時に、それでいて最近の日本人には「起請」を担保する何かが不在となったのだなと感じ入りました。

その血とは突出してきたある者の「我がもの顔」かそれに準ずる性質(タチ)悪を推すような個であることがわかったその瞬間から大いに反駁し、そこで瑕疵が明白になったとしたら徹底的に引き摺り下ろす、いや叩き落として消し去らなければならないという恐ろしいです血が目覚めて流出すということでしょうか。

 

さて「起請文」とは人がある契約を交わしたり、保証を約する際、反故にしない・破らないで必ず履行することを神仏に誓う文書です。「証人」は神仏たちということです。

よって「我がもの顔」は衆人に「依るものが無い」イメージを与えてしまい、その者の「不信心」に対しては同様に「不信心」を植え付けてしまいます。日本人には「依るものが無い」者を

神仏の如く畏怖するか貶めるかの二つに一つにするのでしょう。

 

つい一昔前まで子供たちの中でも約束事には「指切りげんまん  

嘘ついたら、針千本飲ます」(「指切拳万」 小指を切り落としたうえ、拳骨で1万回ぶん殴り 針を1000本呑まなくてはならぬ)などといかにも神秘的で、そら恐ろしい代償の件を口にしていたものです。

昔の日本人の心には、「私」の力など超越したハッキリとは分からない「何か(神仏)に誓う」という潜在的なものがその約束遵守の担保としてあってそれもかなり重要な位置を占めていたのです。

 

その「起請文」にはその書式が大体決まっています。

民間の庶民的なものや省略バージョンがありますが、武士同士の「約束事」の書面も当初はただの紙切れというワケにはいかなかったのでした。

 

各社寺で頒布される牛王宝印(ごおうほういん)という護符の裏に書くのが通例です。

この手の文書は現代の約束手形以上に「家」に強く関わるもので、その性格上大切に保管されます。よって現代の資料館等でもお目にかかる事が多い古文書です。

 

護符の無い裏側が白いものもあるようですが、まずは信憑性をさらに上げるということで寺社発行の用紙を使う事が多かったのでしょう。

寺社も修験道系の宗旨だと昨日記しましたように安産祈願、病気治癒、戦勝祈願の祈祷や呪いで修験者たちの糊口をしのぐようなところがありましたのでその「用紙」の使用を推奨したことでしょう。

 

当初のオリジナルは「熊野牛王符」というものでカラスが複数印刷されています。

牛王符の裏面に起請文を書く(裏に書くから「翻して・・・」という言い方をします・・「熊野誓紙」)のです。

発行元がその記してある約束事を、もしも破った場合はそのカラスが一羽または三羽飛んできてパタッと落ちて死に、約束を破った当人は吐血後死んで地獄に落ちなくてはならないという罰をうけるものと人口に膾炙していました。

 

さて書式ですが、

①「前書」に誓う内容を記します。

 

「神文」に書面に背いた場合には神仏の罰をこうむることを 

     記します。

   ア 最初の出だしは決まった神名を列記

   イ 発行者の信ずる神仏を記す

③宛先

④日付署名

                       です。

 

画像の①②が「織田信雄等二十八名連署血判起請文(大坂城天守閣)」。カラスの並びでも意味があるとのことです。

血判が生々しく残っていますね。署名に血判を押すというところも一般的。

 

さて③④が家康の起請文の護符の面。

彼の場合は起請文の護符として「白山神社」発行のものを好んで使っていました。

「白山瀧宝印」と印刷された牛王宝印の裏面に起請文を記します。三河の白山信仰というとかなりの遠方(総社 加賀)と思いますが当時三河辺りでも普通に使用されていたようです。

かつて三河には「白山先達職」(白山に道者を引率)という権利(代理店?)を岡崎の桜井寺と豊川の財賀寺が争ったといいます。

 

そして⑤画像が「静岡県史」史料編7 中世三のP1254の起請文「前書」の冒頭部分(写しの写し)です。

飯尾亡き後の曳馬城の江馬氏の二人に対して家康が彼らに出した起請文の写しです

家康が何とかして味方につけようと懐柔している様子(安堵状)がわかります。

 

 

松平家康起請文写 

(紀伊国古文書所収藩中古文書・譜牒余録02国立資料館)

 

敬白起請文之事

一 加勢可申事

一 其城代意得事

一 浜松庄知行 善六郎跡職、松下一類跡職何も同前可申付之事

一 美薗(遠江長上郡)之郷之事

一 河東被出弥於有忠節者、五千貫之知可申之事

 

 右条々於偽者、

上梵天帝釈四大天王、惣而日本国中之大小神祇

別而伊豆箱根両所之権現、富士、白山、天満大自在天神之蒙御罰

於現世者、白癩(びゃくらい)黒癩(こくらい)可請之者也、依如件

 

永禄九丙寅(1566)二月十日

 江安                   松蔵

 同加

  参(まいる)

 

起請文青字が「前書」赤字の「神文」アは定型文。緑字が当人(ここでは家康)の信ずる神仏の名。「富士」の名が入っていますね。「癩」(らい)とは癩病のこと。当時としては多種そのように考えられた「不可解な難病」とみなされたものがあったのでしょう。

 

さて紫の字の部分が興味深いので記します。

家康の名は竹千代―元信―元康―家康と変わります。

次郎三郎元信―蔵人佐元康の変更時期ははっきりしないそうで、弘治三(1557)5/3~永禄元(1558)7/17の間とのこと。

「康」は名を馳せた祖父の「清康」から。「元」が今川義元の偏諱。そして永禄六年7/6に「家康」で「元」を捨て、永禄九年12月に松平→徳川です。

よって上記起請文は「徳川」に変える10か月前ということになります。

ということで起請文の名の「松蔵」は家康のこと。この頃のものはコレですね。「松平蔵人佐」の省略型です。

 

もっとスゴイ省略型は宛名の二人。

「江安」と「同加」ですからね。頭を捻ります。

 

「江安」が江馬安芸守㤗賢

「同加」が江馬加賀守時成        超省略型です。