相良菅山に連れてこられた人たちと伝承の墓石

相良の菅山に囚人?と聞いて「ああ、あのこと・・・」と思いつく方は・・・菅山(菅ケ谷)の地元に住んでいるご年配の方くらいでしょうか。


菅山といえば石油の採掘についてブログで記しています。

(2013 12/6 9 12 17 18 20 26 28)


資料によると明治十年頃「静岡監獄」なる施設が静岡にできて、その外に「遠江国菅ケ谷に外役所」があったとあります。

菅ケ谷には看守小屋と囚人小屋が建てられ、看守2名に3名の押丁(おうてい 監獄看守補佐)が出張監督し30名程度の囚人が石油の採掘の仕事に従事させられていたそうです。

今でいう3Kの仕事を囚人にやろせようという算段ですね。

体のいい「懲役」ですが、ここに来させられた囚人とは殆どが「死刑囚」だったと言われます。


史跡研究会の中村先生の記録によると、石油採掘就労の過酷さを物語る記述を紹介しているところがあります。それによると・・


「井戸の口から中を覗くと百間(181.8m)ほどの下はマッチ箱程度で人間は蟻くらいにしか見えない訳で、背筋は冷や汗が出て、足元までが震える程で、それはそれは恐ろしい作業でした。

5,6間(約10m)あたりから物凄い土圧がかかり、これを厚板で囲み、掘り下げる仕事は危険極まりない仕事でした。


そして、それらの仕事に従事させられた死刑囚の状況は

「作業場への行き来は勿論、手錠に赤服、数人の看守に厳重に守られて往来し、作業中も勝手気ままはは一切できず、牛馬の様に追い立てられて、とてもかわいそうで見ていられない」と。


そのような中、囚人墓は増えて行ったそうです。

今もその伝えを持つ菅ケ谷では負の遺産として、それらを物語する人は少なくなってしまいましたが、各所にその埋葬地とともに掘削井戸の跡が散見できます。

この谷の北側斜面には井戸が乱立していて、廃坑になったあとに地元の人たちが買戻しましたが、ゴミやガラを突っ込んで埋めたため各所で陥没が現われて、現在でもそのような跡地が一目で確認できるほどです。


また、現在もお花を栽培する農家のハウスの中にガスが噴き出して植物を枯らしてしまったり、田圃の水にブクブクと泡がたつようなことは今もあるとのこと。


画像は檀家さん所有の山の中です。

伝承によると2名の囚人がこちらに埋葬されたといいます。

墓があるというので案内されて山に上がれば小さな河原の石が二つ置かれていただけでした。どちらのどなたの墓ともわからない、しかし、地元では昔から法要は怠っていない墓だそうです。特に先般九十七歳で亡くなった御婆さんは嫁入りしてからずっとここに上ってお墓と墓場周囲を管理していたそうです。(場所はここ)。


お取越しのあとに立ち寄ったため、黒衣と草履のスタイルはこの山道、相当こたえました。

施主が「長靴を貸そうか」という意味が現場に行ってはじめてわかったというところです。

何がまいったかといえば急斜面もそうですが、栗林の奥にあたりますので、栗のイガだらけだったことですね。