小夜中山子育て伝説は デ・タラメ

幹線道、東海道の不思議噺(遠州七不思議)のストーリーはそもそも後付けの作り話。

夜啼石を現在の「昔話級」のものとして確立させたのは滝沢馬琴であったことは8/29のブログでも記しました。

(その他12/69/218/30)

 

 滝沢馬琴は一貫して「勧善懲悪」や「因果応報」をその著作の中に散りばめて面白く書き綴った読本(よみほん)の人気作家でした。

このお話は1805年の「石言遺響」という書物に記されているそうですので時は江戸末期。

「南総里見八犬伝」や鎮西八郎(運天ブログ5/31)のお話「椿説弓張月」で名を馳せた滝沢馬琴ですがその名そのものも明治になってから有名になったそうでそれまでは筆名に使った名は多種あったそうです。

 

 彼のヒット作「南総里見八犬伝」の発刊が1814年ですから来年で丁度200年。よってこの地の古くからの伝承と思われていたあの話もたかだか200年前の創作なのでした。

 

 しかしまんざら荒唐無稽な創作とは言い難く、それなりに元となる話はありました。

その話の何パターンかの流れに色々と尾ひれを付けて展開が違った筋書きとなった挙句、例の「石」が「我こそは」と各所に点在している結果となったのでしょう。

 

 明治以降この石の存在と滝沢馬琴の話がある程度世に広まったのは当時の久延寺さんの今でいう「町おこし」的な興行活動があったことも挙げられます。

「石」を東京の博覧会に持ち込んで展示したそうですが失敗に終わったとのこと。

 要はその石を日坂の観光資源として売り出そうとの試みだったのでしょうが、その後石の「所有権」を売買したり二転三転して商売ネタの石が増えたりしていよいよ伝承が「わけわからん」状態になっているものと思います。

 

 さて、子育て石伝説の本来、大元の伝承というものがあります。

久延寺さんよりさらに西に行った街道筋の海側には最初「石」が元あった場所に石碑があり、その先の山側の畑の入り口には墓標が。

この墓石が通称「妊婦の墓」でそもそもの伝説の発祥となる遺構と思われます。「小石姫伝説」がそれですね。

やはり俄かには信じられない内容ですね。ご興味のある方は各自お調べください。

 

④の画像が広重の五十三次の日坂ですが、上記街道筋の石版に貼りつけられています。

絵をよく見れば道の真中に大きな石が転がっていることがわかります。