三河一向一揆と門徒の位牌

当家「違い棚」です。

殿(家康)が三方原の大失敗を省みて自らの姿を絵師に描かせたその「しかみ像」のコピーと三方原で亡くなった成瀬藤蔵正義とその妻、妙意の位牌が棚上を飾ります。

位牌不要に関して記しましたが当家には古くから二つの位牌があります。

 

家康は元亀3年(1572年)12月22日の三方原で信玄軍により壊滅的な打撃を受けて多くの家臣を失います。

成瀬藤蔵正義もその中の一人ですが戦いの後の浜松城下での戦死者の(合同?)葬儀は大きく執り行われたことでしょう。

 

家康が桶狭間以降、馬印に用いたことで知られるあの「厭離穢土 欣求浄土」ですが、これは阿弥陀如来による浄土思想に基づくスローガンです。

徳川家(松平)の菩提寺が三河岡崎大樹寺に始まって芝の増上寺と浄土宗のお寺ですからこの我等、浄土真宗にも通じる言葉として親しみがあり私も機会があればこの文言も手ぬぐいに使いたいなどと思ってしまうところです。

 

しかし家康は浄土真宗(一向宗)禁止令を出します。

 余談ですが浄土真宗禁制にいち早く乗り出したのは皮肉にもこの地相良から出た相良氏、九州人吉藩で、弘治元年(1555年)、相良晴広の分国法、「相良氏法度」に記します。

それ以降薩摩藩にも広がって門徒にとっての苦難の時代となりますが一方その苦難を克服する団結力(隠れ念仏)を生むことになります。

 

永禄6年(1563年)から永禄7年にかけて三河本證寺(安城市 八代蓮如の孫、「空誓」が門徒に檄)が中心になって家康の直臣たちをも巻き込んだいわゆる一向一揆を起こします。

 

この三河一向一揆は松平家(家康一統)を二分するほどの対立関係を生み、後世になって三方ヶ原の戦い、本能寺の変後、物見遊山の大坂から這う這うのていで伊賀越えののちの帰還と家康の三大危機の一つに数えられます。

そういった三河一国と従来からの家臣団の結団をも分けるという危機的状況に陥らせたその一向宗の組織力と無欲の浄土への熱意、支配トップから見た門信徒の阿弥陀仏への信心という「恐怖」を思い知り徹底した真宗寺院の廃除を行ったのです。

 

特に成瀬藤蔵正義の妻「勒」釋妙意は本多家の人。

お馴染みの本多忠勝は一揆勃発時に一向宗から浄土宗に改宗して殿(家康)の意向に従いましたが他の殆どの本多一統は一向宗側に付いて殿と戦ったほどでした。

 

家康の対応はうまく、一揆収束もそれほど時間は要しなかったことと一向宗側についた家臣団の反対行動も、彼らが与した相手が「仏」であったということからなのか、非常に寛大に対応し再度家臣として迎え入れました。

 

 成瀬は菊川に出奔中でしたが一向一揆勃発の知らせに、チャンスとみて三河に舞い戻り家康を助けて、一揆鎮圧に働いて過去の無礼を許されました。(いかにも調子のいい男で、他に、ケチ、おっちょこちょい、つまらぬことにこだわる、単純、短気、奮戦も「ついてない」などの性格等が伝わっています)

 

 その後は、暗黙の了解での一向宗への信心は許されましたが、公然と出世して、あるいは大名クラスになるためには真宗から違う宗旨に変更する必要がありました。

そんな中、三方ケ原で戦死した成瀬藤蔵正義の葬儀は禅宗にて行われました。それもおそらく戦没者合同で行うような大葬儀で現代でいう「社葬」扱いのようなものとなったと思います。

 

そこで問答無用で禅宗の宗旨での葬儀が行われ、流れに沿って戒名がつけられてまた、その際使用された位牌が残ったのです。

妻の勒は大切にその位牌を引き取って大澤寺に安置したのですが、後世勒が死した時、その位牌と同じ形のものを家族が作って対で並べたのだと聞きます。(もしかすると妙意のことですから生前に同じものを作らせておいたかも知れません)

ずっと夫婦二人で並べられていましたが後年は当流の位牌不要の思想が流布し本堂後ろ(後堂)の櫃の中に納められていた時期があって虫喰いで痛みました。

このような形で庫裏の棚の上に飾るのは私の代になってからです。

例外的に許していただきましょう。

もはやこれらを処分(お焚きあげ)する理由はありませんので。 

 

銘の文字は微かに読み取れます。

 

元亀三年十二月二十二日 隆功院殿節雄大忠居士 

                    成瀬藤蔵正義

 

万冶三年 一月二十九日 成瀬院殿釋妙意大姉不退             

 

正義のものはまさに戒名であり、妙意も戒名のような法名になっています。

現在では「院殿」も「大姉」も使いませんしまた近年まで門徒に於いて使用されていた「不退」という言葉はもはや記されることはありません。

そもそも位牌というものがあるということで門徒の葬儀あるいはそれに準じたものではでは無かったということが判ります。

 どうしてもここの部分、個人の意思が通らない時代でしたので致し方なかったでしょう。

 

 位牌の使用の有無ということはこれは実を言えば仏教の本質にかかわることなのですね。

以下真宗のこだわりについて記します。各宗派のとらえ方の違いあるかとも思いますが、もともと位牌の元となる形は儒教世界からの発祥で「仏の世界感」では無く(釈迦の教義に無い)むしろ神霊的崇拝感が色濃く出た「間違った伝承」であると解釈しています。(勿論当本堂に位牌堂はありません)

  

 要は位牌という形で眼前にある亡き人の官位であったり名前を記した木札の類なのですがそれが発展し、霊的に我々の支配力をも持つ不思議な「崇敬物」になってしまう可能性があるのです。

またそのような迷信というものが何かの弊害を発生しうるという危惧でもあります。

  

そのような誤った「信心」は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)と二道両立の姿でありこれは真宗でいう「注意すべき」「二心(ふたごころ)」と呼び、如来への背信行為であります。

亡き人の心はあの「木札」には無く、必ず遺された縁者の「南無阿弥陀仏の心に生き続ける」というのが真宗の教えなのです。 

その辺のところどうしても人口に膾炙されていない部分であり位牌を

 

★作らなくてはならないという周囲の力に圧された

★他宗が圧倒的に作る方向にあるのでてっきり作るものと思っていた

★葬儀後のドサクサで勝手に作られてしまった

★門徒寺でも未だ抵抗なく使用しており作るよう勧められた

 

などの理由でまだまだそれらをお持ちになっている方がおいでになります。

愛着が湧いて御内佛に数点並んでいる場合もなおお見受けしています。 

ご門徒の場合、法名やお名前を記しておくには二通り・・・過去帳や法名軸に記すことになります。

 

①過去帳の購入(予算は3000~5000円程度)

②法名軸製作後御内佛脇に掛ける(予算は軸代金加工費で12000円程度)

③過去帳+法名軸両方  

です。

尚過去帳・軸の加工はそれぞれ専門業者にご注文ください。

 <2015以降法名軸(20代)製作は10000円程度で承っています>

 

もし位牌についてどうしていいかわからない場合(お寺としては今あるものに関しては「しょうがない」という立場です)、過去帳などに転記したうえ位牌そのものはお寺にお持ちください。

適宜、寺本堂裏にて焚きあげしています。

これはお寺としてもこれまで積極的にお知らせしてこなかった責任がありますので位牌等の引き取りに関して当山は布施等の御志をお納めいただくことはありません。

真宗ご門徒様でしたら、どなたでもどうぞ。

四十九日以降の白木の法名札(位牌)も同様です。

 

 

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コメント: 7
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 17 7月 2012 08:46)

    いつも お勤めありがとうございます。
    私たちが知らないことが多すぎて
    今更ながら知ることでハッとします。
    大変ありがたく思います。
    時々はこうしていろんなことを知らせてくれるのは
    檀家としても知っておくべきことだと思います。
    すぐ忘れますけど・・・
    「御剃刀」もその都度解説していると思いますが
    こうして文字として残すことも必要かと思います。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 17 7月 2012 21:57)

    過分なお言葉、恐れ入ります。
    なんとなく坊さんとしてお話していることも
    考えてみれば皆様方にとっては数限りなく矛盾や疑問を
    提示させているのですね。

    それを当然であるかのように振舞い、当たり前のように
    知らんぷりしているようではダメでした。
    いつも丁寧に色々なことを説明できたらすばらしいと思います。
    私にいたってはまだまだ知らぬことばかりでもしやあと20年30年と寿命をいただけるとしたら(図々しいですね)一枚一枚脱皮してより成長させていただけるのなと思っています。ありがとうございました。

  • #3

    野村幸一 (火曜日, 07 2月 2017 15:20)

    興味深い名前をブログにて見つけました。

    八代蓮如の孫、「空誓」

    永禄6-7年の三河一向一揆の中心人物なのですね。

    検索すると、一揆敗戦後に逃亡したとの記述を本證寺のウィキペディアにて見ました。

    僧「空誓」気になります。ちょうど当家初代や大澤寺初代の生きていた時代と同じ時期でもあります。また、当家墓碑の銘文に空誓ヨリ八代之孫…
    過去帳にも釋蓮空誓。たまたま似ているのでしょうが気になりますね。本證寺の場所も近江から相良への通り道にもなり得ますし。

    と、妄想しております。

  • #4

    今井一光 (火曜日, 07 2月 2017 16:50)

    ありがとうございます。
    そういえばそうですね。突飛で違和感がある法名でしたから。
    まるで「皆さん知ってて当然」の如くの記述のように感じられました。
    仰るようにその「妄想」は案外と歴史の出発点になるかも知れません。
    また一つ検証していく件が増えましたね。
    これは結論を導きやすいところかもしれません。どちらにせよ結構スンナリと
    運びそうですね。面白いところです。

  • #5

    野村幸一 (火曜日, 07 2月 2017 17:59)

    大澤寺の1番古い過去帳の慶長期付近に釋空誓の名があったとしたら、かなりリアルです。もし、そうなると釋蓮空誓の蓮は蓮如上人から取って…などと想像したりもします。野村姓も相良へ来てから名乗り始めたので初期の過去帳には野村の記述が存在しないとか。

    妄想は膨らみます

  • #6

    野村幸一 (木曜日, 18 5月 2017 11:16)

    本證寺の空誓についてしぶとく調べております。安城市教育委員会から本證寺に関する調査書が出ていて入手してみました。

    大澤寺の開基、今井権七さんが慶長9年没の69歳。
    本證寺の空誓は慶長19年没の70歳。そこから生まれた年を割り出すと年齢差が9歳でした。

    でも、相良に来たような記述はありませんでした。本證寺は息子の覚誓が継いだと書かれていますが、豊田市足助に隠れ住んでる時に生まれたようでそれも伝承として地元に伝わるようですので、他にも子供が生まれている可能性はありますね。20年戻れなかったようですので…

    空誓も何らかの形で石山合戦には関わりがあったようです。

    どこかで繋がりがあるのでは?と思って調べておりますが、難しいです。大澤寺に五家の由来が書かれている文書でも走り書きでも残っていれば良いのですが。。

  • #7

    今井一光 (木曜日, 18 5月 2017 22:54)

    ありがとうございます。
    また先日はようこそお参りくださいました。
    拙寺文書でそれらしき記述は見られません。
    また新発見がありましたらお教えください。