世にいう「初盆準備」

盂蘭盆会の季節です。この頃になると7月~8月は初盆について(地方によって其々色々な迎え方があると思いますが)、特に初めての仏様の場合等、「どうしていいかわからない」という方がいらっしゃいます。

門徒の場合、特に当流というか当山に限った話になりますが、答えは特に付け加えて「何もしない」です。要は「普段通り」と説明しています。

あえていえば「ローソクと打敷は白にしましょうかね」ってな感じ。

打敷も裏返せば「白」だしこだわらなければ朱ローソクでもOKです。

無ければこちらで白を持参しますし「いつもと同じ」を強調しています。

ところが各家の方では色々な情報が交錯しているようで相当混乱しているようです。

 この地区はご門徒さんが少ないということかも知れませんがご近所さん、親戚筋から色々な規約風のご指定を受けてしまって私が気づいたときは既に遅し、フルコースで準備万端の家もあったりします。

「位牌を作り直しました、燈籠を買いました、お盆用のご馳走を用意しました・・・」色々です。

 四十九日法要が終わるとまず大抵、これまで御遺骨が鎮座していた「中陰段」は葬祭屋さんの手で撤去されていましたが、これは最近使い捨て、の段ボールでできたものが大半で、いわゆる各家の買取品。

そうなると撤去となると自分の手ではなかなかできず、初盆時期もそのままになっていたりします。どこかでけじめをつけないと御内佛と中陰段(そもそも中陰とは49日~満中陰~までの間の事)のダブルスタンダード的参拝対象が発生し、なかなか具合のいいものではありません。

そもそも「自由で何もしなくていい」という言葉に慣れない方々は「何かに縛られたい」気持ちにあるのか、不安になってしまうのでしょうか。

とにかく門徒は「いつもと同じ」が基本です。

位牌は仮の法名板は四十九日でお寺が引き取りますがここで位牌の新調も不要です。

元来門徒に位牌は有りませんので・・・だから他宗でいう「位牌堂」の類は拙寺には設けてありません。

(当山に成瀬藤蔵夫婦の位牌が伝わりますがこれには別に理由があります)

葬祭場でセールスされた燈籠も最近用意されている事が多いのですがこれも必要無いですね。

もっとも親戚筋の方で葬儀後に用意される場合がありますので無碍なことは云わず、当方としてはあったらあったで、無ければ無くて「それでイイ」というスタンスです。

しかし燈籠について付け加えますと大谷派としてもし盂蘭盆の燈籠を用意するとなるとその流儀に従って正式な燈籠、「切子灯篭」を用意することになります。私は未だ在家にてこの燈籠を見たことはありませんが、これも無ければ無いでそれで良しですので・・・

この燈籠もやはりお西とお東では微妙に違いがあります。興味のある方は「切子灯篭」で検索してみてください。

なぜいつもと同じかを強調するのかというと、私は365日いつも変わらない心で報恩報謝と反省の念仏をしたいからとお伝えしています。

お盆のお迎えで亡き人を呼び寄せ、時間限定で接待し、時が来たら「送り火」など焚いて「ハイさようなら」とはちょっぴり虫が良すぎるのでは。

門徒の「浄土」は現世と行き来自由なんです。何度も記しましたが浄土は「場所」の概念では無いのです。

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 30 6月 2012 09:48)

    このように説明するのはいいですね。
    わかりやすく読まさせてもらいました。
    周りの家がお盆に際していろいろなことをすると
    ついつい我も、と心配になります。
    お墓もお寺も必要ないと言えばそれまでですが
    形あるものに頼ります。
    お寺の親鸞聖人の像にしても
    前を通るとき無視はできなくて
    手を合わせます。
    いくら見た目では単なる像だと思っても・・・
    何もしないのは後ろめたいです。
    心にやましいことがあるからかな。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 30 6月 2012 13:39)

    ありがとうございます。
    「やましい」と感じて手を合わすことが「反省」ですね。
    私もやましいところだらけで年がら年中手を合わせています。一時も「なんまんだぶ」から離れられないのも煩悩の固まりの故です。手を合わせることによって自身が救われているような気がしてきます。