今年一番と思わせるような天気に恵まれました。
何せこれまでがあまりにもわろき天候続きで。
おかげさまで朝から本堂工作の続きと植木鉢の整理をしたりのんびりと過ごしました。トレーナーを着用したのは朝の数分だけ。動けば半袖でまったくOK。
しかし日が陰ったり時より南寄りの強めの風が吹きだすと「やはり油断がならない」になりました。
午後遅くからは史料館長谷川氏と田沼家所縁の刀剣関係で活動された市のご担当の方たちがお客人たちを連れて拙寺本堂へ。
いつもと違うところは会館に波さんの着物をテーブル上に用意していたこと。これは長谷川氏からのリクエスト。
掛け軸と一緒でたまには出してあげたいものでした。
薬剤を入れて再び暗所に片づけることにします。
ちなみにその薬剤とは「エコノミュアFTプレート」なる商品名で、まぁ一般的ではない「プロ用」といわれているものですがお高い。
尚、長谷川氏は以前のあの大名装束にて史料館から徒歩で来られて案内していました。
テレビ小僧の私は「こりゃ面白そうだ」と思わせるもの以外は
ただスイッチをONにして流しているだけ。
そして基本はCM垂れ流しの局、怒ったり騒いだり、歌のシーンなどには耐えきれずにチャンネルチェンジはします。
気に食わなかったらOFFにすればイイだけですからね。当方に与えられた特権です。
ひと昔前に「NHKを×××」などと理解不能意味不明の御託を並べてバッシング、他のライバルたちへの誹謗中傷の挙句、その世界から消えた御仁がいましたが、そのチャンネルたち(BS含む)がもし無くなっていたとしたら、私の場合、テレビ不要になります。
三択になりますのでEテレに合わせる頻度が高くなりますが、この番組のあのコーナーを見ていると一つ思うところがあります。
それが「ピタゴラスイッチ」の「装置」。
こうやって、またこうやって、ああしてこうしてこうなる・・・というもの。
おそらくその企画と撮影に膨大な労力がかかっていることを思いますが、これはあくまでも人間がある結末を想定して製作した装置です。
それを見ていると私はその装置が人の人生のようにも思えてなりません。
人為、はたまた神慮か仏によるありのままか偶然か、目に見えない何かが計略して作ったような「装置」によって最悪(最良)の結末を迎える・・・などと。
時に各岐路への遭遇に「タイミング」の良し悪しで語ることがありますが・・・
日常のちょっとた失敗から信じられないような大事故までそれら遭遇には数々の岐路(装置)があって、何故かその結末に導かれてしまうのかも知れないという不思議。
「こんなんなっちゃった~」と笑って誤魔化せられればまぁヨシ。しかしその結果が最悪の結末だったら・・・などなどいろいろ考えます。
こうしてああして・・・の途中、どこかの段階でその「タイミング」やら岐路となるかもしれない「私の行動」を止めることができないものか・・・も。
私はその日常に隠れている「スイッチ」を恐ろしく感じているのですがそればかり考えていれば何もできません。
病や車の事故等もすべてはその「スイッチ」の因果の連続でしょう。
その装置に抗うために、私は自分の行動に少しばかり抑揚をつけてタイミングをズラしたりします。くだらないとは思いますが・・・
事故やリスク、病の主体は私です。
「本日の行動予定」がもしやその「装置」に組まれていたりしたら・・・など考えてしまいますので、私はしばしば予定というものを天候やその時の気分によってぷいっという具合にナシにしたりします。
またはトイレに行ったり、予定とは違う別の些細なことに気を配ったり、わざとその初めの「予定」としてあったとしてもタイミングをズラすというか自分なりの手心を入れるのです。
「誰か」が作ったその装置が完遂できないように。
その「こうなれば、ああなる・・・」など、どちらの皆さんもそれを思うことはあるのでは・・・それとも私のお頭はイカれているの?
その発想は「歩く不注意」でもある私の保身術でもありますがね。
扨、先日の橘寺。親鸞さんの像の先に如意輪堂があります。
私は仏像の美というものを考えるに(当流阿弥陀如来立像を除いて)一番に美的感覚を刺激されるのは如意輪観音です。運慶の大日如来もいいですが・・・
石山寺の如意輪観音前立や百済寺に三井寺、室生寺、岡寺などなど。
そちらのお堂にも勿論如意輪観音が。
平安時代末期の作と明日香の橘寺としては新し目を思う仏像ですが百済寺のそちらと比べてかなりデカイ。
丈六(坐像ですから2.4m)とは言いませんがサイズは173cmもありますからね。
その堂の前に立つのが栴檀。
こちらは白檀と混同するようですが当地萩間川右岸に見えるセンダンのこと?
私はお香といえば白檀の香りは好みではなく沈香を所望しますが、その栴檀には看板の通り諺がありますね。
それが「栴檀は双葉より芳し」です。
その語もあまり好きな語ではありませんね。
なぜならば人生は複雑な「スイッチ」の連続によって人生の駒が進む?わけですから、子供のうちから終末まで一生の間、「輝き続け」られるはずなどありえません。子供はみんなおなじ。
まぁそのスイッチのことを仏教では「縁」といいますが・・・
何しろ将来の事、これから数分、数秒後のことでさえ、知り得ません。
「ああしてこうして」の左右分岐の因果により変わってしまう極めて動的な道のりなのですから。
私の予定も決まっていることなど一つもない。









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