石山寺本堂 本尊如意輪観音前立と紫式部の間

今朝の本堂は暖かめでしたが一応石油温風器のスイッチはON。まだ1基だけ小型のストーブの導入ですが念のためということで。ご年配の方の参列もあることですし。

私は特に寒さは感じませんでした。

最近は日に何度もテラス2階の植木たちの様子(特に室温)を見に行きますが昼間は20℃以上をキープしていました。

夜間も10℃を割るような予想は出ていませんのでここ少しの間はノーケアでいいかと。

 

夜間は日曜美術館(再)正倉院展について。

訪れたい場所ではありますが、この時期はまったく身動きが付きませんからね。

奈良博の館長さんが「展示物は一旦展示されるとまず10年は出て来ない」とのことでしたが、そうなれば真っ当に正倉院御物をこの目で網羅して「わかった」と言えるのは少なくとも「10年連続での拝観」が必要になるということか。

それでも100%とは言えないでしょうが次々と忘れ去ることの多い私としては記憶の片隅に置くことさえもおぼつきません。

時間ができたらその10年連続にチャレンジ開始したいとは思いますが・・・チラっと館内の様を映像で見ましたが「人多し」。

展示会の暗さと紹介文字の見づらさ(これは私の年齢的問題)もあります。

特に人混みの中に身を投じること、やはりそれはネック、閉口させられます。

何より「10年欠かさず」ということも必須になりますが、その間をまずは私自身が生き続けることが肝要になりますね。

奥方に「そりゃ、死んでまう」。

 

扨、先日は石山寺本堂をさらっと記しました。

またこちらに鎮座する33年に一度開扉されて姿を現す本尊如意輪観音像についてもどちらかブログで記していました。

やはり現状、次の開扉まで20年以上のインターバルがあり、その際も「死んでまう・・・」と爆笑していました。

 

秘匿、秘仏化し、珍重度をアップさせようとの目論見みがあるのか・・・などと下賤なる私は卑しい考えに落ち着いてしまうわけですが、それはやはりまた庶民レベルの発想にそぐわないかと思われますし、その33年という時間はあまりにも人命の与えられた時間というものを無視していようにも。

拙寺の阿弥陀さんは365日、3代目釋祐傳―成瀬伝助時代から400年の間、人々の前に姿を現し続けていますからね。

まぁそちらの観音さんのオープンスタートとは相当なる時代差があります。

まぁ比較することが無意味ですがね。

 

本尊の丈六如意輪観音像(平安後期の作)は大きな厨子(左右3間、奥行き2間)のなかに両脇侍とともに納まっているとのこと。

「丈六」とは仏像のサイズを一般的にそのような語で記しますが大まかに、だいたい5m程度、ひょっとしてそれ以上の仏もそのように表現されることが。

要は半端ナシに大きいということ。

あの南円堂の不空羂索観音も3m超えでしたが、さらに巨大な如意輪観音がお出ましされるということですね。

 

そういう場合は往々にして前立て本尊と呼ばれるコピー(失礼!!)

―こちらは江戸期の作―があるものですが、それが画像②。

いずれにせよ本堂に入りそちらの厨子周りを拝観するには別料金が必要かつ写真撮影は禁止。

前立ち仏の画像もまた最後のホンモノの図も転載になります。

 

確りと複製されているところがわかりますね。

33年に一度の開扉の際も堂内は薄暗く、他の仏たち(胎内仏等)含めてうまく見ることは難しいでしょうね。

 

また今回の石山寺本堂の第一のウリは何と言っても「紫式部の間」でしょうか。

皆さん中にいらっしゃるキレイなお人形さんにカメラを向けてパチパチ。そちらは撮影可です。

 

私は奥方と前立ち限定でしかお逢いできなかった如意輪観音のイメージを思いながらしぶしぶとあの文句(「死んでまう」)を吐きながらそちらを後にしたのでした。

 

⑥図は最も古い(室町時代との推測)「紫式部図」。

相当の痛みがあって判読も難しいとのことですが賛の最初に「源氏水想観之図」とありそれは彼女が湖面を眺めながら物語の発想を得たのだとのこと。

またこちらでは紫式部は観音の化身とも言われていたと。

 

⑦は石灯籠のバック、本堂へ上がる階段と蓮如堂