教如さんの巨大 東本願寺撞鐘

午前中はボケっと過ごし午後から地頭方処理場に。

途中、神主のN先生の家に立ち寄りました。

「もう飲みだしてるが寄ってくれ」とのことで顔を出しましたが「上がれ」というので汚いツナギ姿ではありましたが1.5

時間ほど滞留。

「飲んでいる」といいなからも「体調は良くない」といいますので当方としても顔をしかめますが以前から「酒をやめるくらいなら死んだ方が・・・」が口癖の人ですのでそれは致し方なし。

次の検査で結果が出るそうですが透析通いになる確率が高いとのこと。

医師には「(病状)悪かったら殺してくれ」と言ったところ「そんな元気なのにできるか!!」と断られたそう

 

Nさんの家系は当地で700年続く神主の家系(おそらく相良住人として一番古い家)です。

意次の相良城の地鎮祭に出仕、家にはその棟札(史料館に寄贈済)が伝わっていたり、意次の娘が嫁に入るなど数少ない相良田沼に関わる名家です。

そういう田沼、幕府に近かったというところから、幕末の遠州・駿河の神主たちが倒幕のために集結し江戸に向かった際のアレ、その流れを拒絶して相良に残ったのでした。幾らかの金子で勘弁してもらったと。

 

余談ですが江戸に上った神主たちグループは慶喜が駿河に入ったことから地元に帰還できなくなりトーキョーに神社を建てたのですがそれが靖国神社というのは周知の話。

その神社は明治以降の新しい、(取ってつけたような)独特な意義をもって存在します。

 

先生の家系は腎臓に難があるとのことです。

そのN氏のお兄さん(逝去)もずっと透析に通っていました。

その人はよく「これだけ長い間透析を続けて生きているのはギネスものだ」と仰っていました(三兄弟の長男)。

そのN氏の弟さんも弟さんの息子さんも、その病で苦しんでいるようで、遺伝というものの恐ろしさを改めて感じます。

 

N先生も若い頃、当初から「神主はイヤだ」の気持ちで刀の研ぎの世界に飛び込んだそうですが、強い父親の意向があって神主の勉強をして家を継承したとのこと。

当初は父親に従ってあっちこっちと忙しく廻り「一時はノイローゼになりかけた」といいます。

昨日記した通り、家を継ぐということの重責は個体差あるもののかなり個人の心を痛めるものです。

自由がない、将来の伸びしろを感じない(夢がナイ)ということでしょうかね。

何度も言いますが私の息子にはたまたま「それしかない」の「変人」だったわけで。

 

扨、当流本願寺顕如の息子たち(三兄弟)教如、顕尊、准如でしたが、その長男の教如が東本願寺、顕尊が興正寺、准如が西本願寺ということになりますが、当時はその継承に信長以降のドサクサがあってそれぞれ皆翻弄させられたわけですね。

その辺りの件、拙ブログでも触れていますので割愛。

 

東本願寺境内、先日記したシートに覆われた工事中の鐘楼の前には家康に寺地を与えられてからの始まりを感じられる品が・・・。

慶長九年(1604)に御影堂造営、5月28日に鐘楼に釣る梵鐘を鋳造して6月6日に撞き初め16日に遷座法要を行い東本願寺(真宗大谷派)が成立といった経緯がありますが、その歴史が記された生き証人。

 

梵鐘の大きさでは日本でNo.5。

「本願寺 信浄院(教如) 慶長九甲辰五月廿八日」が光っています。

 

同行した皆さんのうち、この鐘の周りを見てまわる方はいなかったようでしたが。