生成AIも人心思考の変化も巻戻すか 東条城と法応寺

朝水盤を覗くと、一昨晩の雨の成果は僅か10cm程度の水が溜まっているだけでした。

これから台風6号が「私」を狙ってやって来るのですから、放っておこうかとも思いましたがやはり早く洩れの有無を知りたいということもあってしばし注水。

満杯にしなかったのはスグに大雨になることが確定的だからです。夕刻の目視では漏れはナシ。

 

最近の日照り続きで雨が欲しいとは感じていましたが、あの台風が直撃するとなれば相当厄介なことになります。

沖縄の耐台風の強靭さはこれまでの経験上承知しているところですが、今度、あそこまで沖縄が台風にヤラれた様を目の当たりにして私は怯えています。半端ない恐ろしさを感じます。

船が道路上に打ち上げられ電柱が倒れる様は目撃しましたがあの長引く停電による生活不便と諸活動機能低下について見た事も聞いたこともありません。おそらくインフラがズタズタになっているのかと。

 

今流行りの生成AIとやら、台風の勢力、進路について少々の予想はできるかもしれませんが、切れた電線を繋いで修復したりホテルのシーツ・タオル系の洗濯・アイロン・納品実務までできるはずもなく(ホテルは停電によりその納品が滞っていて受け入れ不能のよう)。

 

その生成AIのデジタルテクノロジーによって職を追われる人がぼちぼち出てきた感じ。

シナリオ作家にコピーライターなどがそうですが、今ハリウッドではスターたちがストを行っているのもその件です。

AIによって画像合成をされればアクション場面の撮影のための機材係からスタントマン、そして役者迄が不要ということになりかねないからです。

その製作手法の導入に反対し、規制すべきと主張しています。

まだまだそれの普及によって押し出される職種は出てきそう。

 

一時、葬儀関係ではバーチャル坊主の葬儀や遠隔モニターでの葬送のチャレンジがあったようです。ドライブスルー焼香もしかり。

しかしいまだ私どもが「その時」に呼ばれ続けていますのでその飛躍、少々のムリがあったのでしょう。

主流にはなっていないようです。

先般本堂であるご門徒さまから「テープじゃないだろうな・・・」の疑いか生じたそうで法要中、私の近くまで来て「覗き込んじゃった・・・」などの方がいました。やはりその手のことに関しては許容できないというのが本当のところなのでしょう。

AIの如く聞こえたとなれば嬉しい限り。

学校、塾講師など遠隔配信などは当たり前の如くになっています。コロナがそれを飛躍的に進めてしまいました。

 

AIのバーチャル坊主に取って代わられたとしたら・・・バイトにでも行くか・・・等々軽口は叩いていましたが、今のところ私どもお寺(坊さん)とご門徒さまとの「おかげさまのおつきあい」は継続しています。

 

AIの作り出すバーチャル坊主はきっとスバラしい読経と感動的な法話で「言うことなしの満点僧侶」なのでしょうがさすがに生身の「なんちゃって坊主」の方が各段にマシだということでしょうかね。

特に間違いだらけ、いわゆる煩悩具足の凡夫坊主の破戒的人間臭さ。

度が超えない程度の「この坊主ムカつく」という感情が発生するのも人間どうしの有るべき姿かとも思います(開き直りではなく)。

 

AIの如く完璧・大丈夫の坊主の生成を人は求めていないのかも。

まぁこれも将来どう変わっていくかなど予想できないくらい、人の心はコロコロ変わっていきますからね。

寺というものの永続性については難しいところではあります。

 

世の中の変化が目まぐるしく動いてきたわけですが、よくいう「歴史は繰り返す」、本当にその巻き戻しはあるのでしょうか。

その巻き戻しも三河一向一揆の際の家康の「以前のように」のお約束の通り、まったくの原野原始の世界に「戻す」というのではこれまた困惑。

 

扨、東条城(こちらも)。

廃寺になった法応寺の件です。

法応寺は松井忠次が永禄年間に建立したと伝えられる寺で昭和三十二年に廃寺になっています。

ここぞとばかりに寺の跡は伊勢湾台風後の堤防改修のために土砂採取場となって今は跡形もなし。

今となっては何と惜しいことしたものか・・・と思うところですが当時は入寺する坊さんがいなかったのでしょうかね。

私からすれば名刹であり勿体ないの心情。

寺領三十石、松井忠次菩提所でした。何とかならなかったのか・・・残念。

 

以下岩瀬文庫より。

「寺伝では日近合戦で討死した松平右京亮義春の菩提寺として創建されたと伝えられるが、日近合戦で亡くなったのは忠茂が正しい。

法応寺には忠茂の跡を継ぎ天正九(1583)年に没した松井忠次も遺言により埋葬されたという。

享保十七(1732)年に忠次の没後150回忌の法事が行われたのを機に墓塔が建立され、延享二(1745)年には顕彰碑が建てられた。

明治二十三年には東条松平家忠らの墓碑が建立された。」

 

法応寺は東条城の北側の今の県道を隔てた山の石段のトップににありました。⑦がその方向になりますが・・・

 

①②は上記県道を走って見かける登城口の図。

駐車場はさらに東へ走った場所の本丸下あたりにありました。

先日発見。