地元古老と立話 市木橋たもと昌光寺 市木城址

昨日は今年初めての植木いじり。

と言っても鉢の更新を、それも一つだけですが、行いました。

これだけ温かくなるとテラスのハイビスカスを表に出してやりたいくらいですが、それは例年、サクラの満開を迎えた頃。

もう少々待ちましょう。

冬の寒さでハイビスカスは現状4鉢が枯れていますので他の連中は何とか生きてもらって盛夏を再た味わっていただきたいものです。

 

やはり地植えにしているガジュマルは余程寒さがこたえたらしく、変色枯れの枝葉が目立っています。

毎度その個体は遠州の風と寒さに慣れ切った如く、ダメージの少なさを誇っていましたが。

うまいこと復活してくれることでしょう。

 

境内では「86歳」とは思えない、お元気でニコニコしている女性と話しました。

生まれ育った地もここ相良とのことで、「昔の相良のこと」なら・・・なんでも知っているような生き字引さん。

色々爆笑しながらその話に耳を傾けましたが、こんなフレーズがありました。

 

「バスガイドと電話交換手(の仕事)に娘を出すな」です。

年配者の方ならどなたでもそのニュアンスはわかるようです。

就職先として当時若き女子たちが憧れる職種の一つなのでしょうが現代のように各ハラスメントについていわれる時代ではなく、心身ともに疲弊困憊させられ、仕舞には親が後悔させられる・・・の代名詞だったよう。

両職種とも特に後者など現代ではそうは見かけられなくなりました。まぁ「女工哀史」時代の延長、人権もへったくりも無く、男尊女卑当たり前の時代だったということでしょうね。

 

とにかくその方と話していると時間が経つのを忘れるほど。

年配者による昔の相良の話は面白い。

個人名頻出であまり大きい声では話せないようなことばかりですが・・・

ただし笑ってばかりではいられませんがね。

爺さんの事、父親のこと、そして私自身の話、息子の粗相・・・きっと心に秘めたもの色々あるでしょうから。

ネタにされて笑われていることもあるでしょう。

ただし私は「ありのまま」しか演じられませんが。

 

扨、私は小田原城の麓で生まれ、そこでの生活が長かったせい「城」といえば天守閣のイメージが定着したのですが、齢を重ねるにしたがって「否、それは違う」ということに変化してきました。

城郭としての建造物が遺ることこそ奇特な事。まずそれは稀な事。

そもそも「城」という括りにはあっても砦・館の類のそれが全国の大部分のその今といえば改変されているか何かの建造物が建っているのです。

それは明治の国の施策もありますが、地方行政の土地区画整理の改変が昭和に入ってしきりに行われてきたという経緯もあります。

城址といいながら草ぼうぼうの放ったらかしにしているよりは田畑や住宅に替えた方がよろしい・・・という判断ですね。

ということで開発の手が伸びやすい平地にあった「平城」は真っ先に消滅の憂き目を見ることになります。

 

新しく「その上」に来た方がその歴史の一端について掲示でもしてくれれば誰もが共有できる歴史の情報となるのですが往々にしてそこまでの配慮や指導は地区の教育委員会の手ですらも行き届かないところですね。

よってそれは時間の経過とともに消滅していくのです。

 

遺構がこの目でもって確認できる山城の面白さとは別にそういったかつてあったといわれる平城を想像するのはまた面白い。

地元の方に聞いたとしても「そんなところに城はないよ」と呆れられることは間違いありませんからなかなかそれを聞き出せないところもありますが。

 

「ここが城址」であるとマップの記載を見て立ち止まったことはかつて何度もありますがまず平城の場合は厄介です。

地元通行人を捕まえて聞くという作戦は、ただ道を聞くという類のものではありませんので捕まえる人を選択しなくてはなりません。たとえばベビーカーを引いたお母さんや女性は経験上徒労に終わりますね。

他所から嫁に来たというパターンが多く古い地元の話など得られないというのが専らです。

 

よってベストな選択は高齢の男性。

時に会話が成り立たない場合もありますが、古い話はそれに限ります。

 

以前立ち寄った豊田の市木という地の件(場所はこちら)。

そちらには三河鈴木氏の一流の城、市木城があったといわれます。それが現在昌光寺がその跡に建っている地です。

なるほどそちらは目の前に矢作川に注ぐ支流が流れ、周囲より高い地になります。

川は城塞の堀となりますから平地城館必須のアイテム。

また、防御性と水害から逃れるために土盛りも必定となります。

 

よってまずその周囲との高低差についてそれを感じそして区域について約100m✖100mの四角形(国人領主の城館パターン)について想像を膨らませていきます。

それを楽しんだのちに付近の古老探しとなるわけですが、そう簡単にそのような方が現れるはずがありませんね。

ところがあの時は偶然、遠くから私を見つめている方に気づき

ついその方に誘因されてしまいました。

 

聞けば寺は近年まで尼寺で、先代あたりから男性住職の寺になったと。

尼寺創建の経緯は不詳ながら裏の土塁状のものは「殆ど墓」との認識だそうで、おそらくそちらを供養するために建てられた祠などから寺が始まったのかも知れませんね。

 

その土塁に見まがう土盛には現状広葉樹が繁茂しているのですが以前は松だったとのこと。要は「験松」の類だったのでしょう。

ということで墓として残されているようでした。

 

どちらでもその手の土盛りや竹藪を目にします。

さすがにそこには「手を入れるな」などの禁忌、古い伝承が生きているということですね。城は潰されても墓は案外と残されるのかも。

いや最近となると墓も問答無用で追い立てられていますが・・・

以前そちらからは「鎧やら馬の骨などが出てきた」との証言も。

そして今のコンビニがあるあたりまでかつてはその面影があったようなことを語っていました。

 

その方はおそらく、寺部城の戦いのことを仰っているかと思いますが1558年(永禄元)、今川方として出陣した松平元康の初陣ですね。

その戦いで敗れた鈴木一党の寺部城の出城がこの市木城だったかと。もっと想像を広げればその戦死者や馬などをこちらに埋めたということでしょうか。

 

豊田市も城が無数にありますから大変ですが、国際的有徳なる企業を抱える裕福な地。

おかげさまの心で歴史遺構を伝え、生かしていただきたいものです。部外者の余計なお世話か・・・

 

先日は土呂八幡宮のところで「鈴木さん多し・・・」と記しましたが本證寺連判状にも「重」付の鈴木が3名連なっていました。

鈴木に「重」が付くと三河鈴木の系譜を連想します。

 

城郭大系では「その他の城郭」の項目でサラっと。

豊田市のトップバッターとして

「市木城 鈴木氏在城 遺構なし 上屋敷・城坂の地名が残る」とだけ。

 

画像はオートフォーカスがマニュアルに代わっていたことを失念、ほとんどピンボケ失礼。奥方は「ただの呆け」と言いますが。

 

⑧がコンビニの向こう、市木橋。

⑨はお寺の前の川。矢作川に注ぎます。

その名のバス停もあります。要は街道筋でもあったわけで。