鵜殿坂の安楽寺 山門優美も 石川数正の書置き

昨日は厳冬期にもかかわらず法事がありました。

一日ズレていたらまさに雲泥の差。

無風で春の日差しのお天気は一昨日とは「うって変わって」の感。

すべてにおいて「有難い ありがたい」と一同終始声が出ていました。

 

尚、「厳冬期にもかかわらず」の件、常日頃から「本堂は無茶苦茶寒いので 繰り延べOK!!」とお伝えしているからです。

その日は堂内大小4台のストーブ+火鉢を用意していました。

大抵はこの時期それらを抱きしめるようにしていなくてはホッとする温かみを味わえない本堂ですが、昨日は座っているだけで「丁度イイ」くらいだったとのこと。

 

嬉しかったのは参列者の若い方でこれだけの石油ストーブを稼働することによる燃料費と給油作業の苦労について奥方を労う言葉をかけてくれたことでしょうか。

私の「厳冬期~」のところは皆さんが寒い思いをするだけでなく「当方の対応大変」もあるわけで。

 

扨、昨日の続き、「三河後風土記 正説大全」から。

高天神でもお馴染みの敵役、小原肥前守(またはこちら)・三浦右衛門尉(またはこちら)が駿府人質のところに登場します。

小原の氏真への注進です。

「徳川どの志しを変じて西郷の城を責落し鵜殿長持(昨日と同じ誤り)を討取り息男長照(やはり誤りか)生捕りとなったよし」。

氏真はそれを聞いて「大いにいかり歯噛みをなし、三浦右衛門尉と相談して駿州に居給ふ御台幷若君三郎殿母子を殺害し其後大軍を率し三州へ押し寄せ徳川家を責亡さん」となるわけですがそれを聞いた関口刑部は新野佐馬介に相談。

新野はうまいこと三浦を丸め込んで氏真の差配は「無道」になるおそれ、将卒に疎まれることが大いにありうるなどと新野の談を自身の意見のように氏真に申し聞かせて「御台母子は危急の難を逃れる」ことができたとあります。

池新田の新野の働きがありました。

 

その頃岡崎では石川数正が家康に進言。

「駿州に居給ふ若者の御事心元なく存じ奉り候条某かの地へ罷り越し御難儀も出来仕り候はば身命をかけて守護し、もしまた叶はざる時は敵の手にかけずして御介錯仕り、其うへにて花々敷く一戦して討死仕るべし」でした。

 

そして家康が数正へ返したことばが

「遖れ(あっぱれ)汝は無双の忠臣 嬉しくも申ものかな」と涙ぐんで「汝ごときの忠臣を何ぞ一人の小児にかへべきや 志しはさる事なれども我はじめよりかの小児は捨殺すとも先祖の家名をまったふ(全う)せん」と数正の申条は無用と、重ねての数正の言に聞き入ることはなかったと。

 

ということで数正は一通の書置きを残して駿河へ向かうのでした。

「~自然御難儀の事あらん節、然るべき者一人も随ひ奉らざる時は流石に徳川家の若者浅間敷御最期なりと、諸人の批判に預からん事残念に候、其上三州には恥ある士なきゆえ一人も随ひ奉らずなどといわれば徳川家の御名を下し奉らん事口惜しき次第~

 

この件、後の信康切腹と数正出奔の前振りのような気がしますね。原因はやはり・・・

 

さて画像は鵜殿坂、蒲郡北部小学校の向かいのお寺安楽寺。

お寺の名から「住蓮と安楽」や「往生安楽国」の如く浄土系を思うところですがまさに浄土宗(西山深草派)のお寺で創建は法蔵寺(拙ブログ多数)から僧を招いたとあります。

残存している門構えからしてかなり大きな本堂と庫裏があったことを想像します。

というのは残念なことに2015年に本堂他各建造物が焼失してしまったからです。

私も同じ寺の管理者としてその事案は切実で胸が痛むことしきり。当時のニュースには境内での焚火が原因とありましたが、失火は尚更辛いことです。

乾燥期で「あっという間」だったよう。

消防車20台ということからもその火事の大きさがわかります。

 

画像は火災から免れた山門。

この山門からして本堂庫裏の大きさは・・・などと思うところです。