三浦宗有一統埋葬地は岡崎沓掛原 右衛門坂

土曜の午後は世話人会がありました。

報恩講詳細告知のための寄合で、いわばこれも恒例行事の一環です。既報の通り市長選候補者御三名はじめ檀家さん市議2名の挨拶をいただきました。

寺でそのようなことになることは思ってもいませんでしたが私としては「たまにはいいや・・・」程度で、成り行きに任せました。総代さんたちが仕切って進行しましたが、肝心の報恩講の件で時間を気にしすぎて話しきれないところがあったのは本末が前後して私としては心残りな世話人会となってしまいました。

 

また祭典法被を着こんだまま出席された鬼女地区の世話人さんもいらっしゃいましたが少々気の毒に思って帰り際「ごめんなさい」と声をかけていました。

 

この連休は私の知っているところ、須々木・鬼女・池新田のお祭りです。池新田の世話人さんはそのため欠席の報せが入っていたほどですから。

私が「決の毒」と思ったのは鬼女行僧原の檀家さん一統(というのもすべて姓は「河原﨑」)は一部境界が牧之原市に出るお宅があるものの殆どが御前崎市民で今度の選挙の話はまったく関係ないことでしたから。

 

まぁ他の世話人さんたちにはいつもより時間をオーバーさせてしまいましたがその「顔見世」に快く耳を傾けていただき有難く思いました。

 

さて、昨日は三浦宗有の供養碑(宗有寺)の件を記しました。

寺そのものは事件のあとに入った横須賀康高がその死を憐れんで建てたもので、石碑も後付けになります。

そもそも三浦宗有が四ノ宮右近を頼って滞留した場所は四ノ宮屋敷があったといわれる宗有寺に近接した場所ではありません。

宗有寺や岡崎城の北側の小高い丘を沓掛原といいますが、そちらに花澤城から脱出した三浦宗有と合流したであろう三浦家一統の者たちが入った四ノ宮家手配の屋敷があったと思われます。

 

現在は人の手を拒んできた歴史を推測しうるような荒れた雑木に覆われていますが、かつては陽当たりのイイ長閑な場所であったことがわかります。

往々として街道筋の畑の中にこういった林や竹藪が残っている場合は何かの云われがあるものですね(場所はこちら)。

⑩画像でもおわかりの通り坂の北側は地区の墓苑となっています。その伝承があっての墓地新造改修の流れがあったのかも知れません(推測です)。

75人という数字がその小笠原の追捕にあって滅亡したといわれますが「父親(小原鎮実)の始末」13名とは断トツに掛け離れた数。これを「やりすぎ」と評されたのは言うまでもないこと。

尚、三浦の父小原もこの沓掛原で自害したという説もありますが、まぁ墓と小原屋敷なる伝承もあることですし、やはり父と子の最期は別々であったと思われます。

尚「沓掛」なる地名は街道筋でも宿場の中間地点の一休みの場、殊に高い場所。沓はクツで履物のことです。履物を脱いで掛けておく場所からと。

 

墓碑や案内板はこの坂道の南側にありますが、この一帯は遠州須恵器の代表的な窯があったとのこと。

⑧が西行き馬伏塚城方面⑨が東の高天神方面。

⑩航空図交差点南方向に行けば宗有寺、岡崎城へ。

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コメント: 8
  • #1

    河東村出身者 (日曜日, 08 10月 2017 21:16)

    三浦は別野の長屋にすんでいて、その長屋の位置が宗有寺であると、高天神城記にはあるようです。(メモをとらなかったのでうろ覚えですが)。
    三浦右衛門大夫夫婦、と龍巣院文書に出ているので、奥方がー緒だったのは確実ですが、残った四宮ー族の行方の方が気になります。

    大石外記や新野左馬介の長女の嫁ぎ先の上田氏も「三浦右衛門と仲違い」したとわざわざ書きのこされているので、怨みを持つ人は少なくなかったでしょうが、戦国史研究40号の糟谷氏の論文では、小笠原との仲はむしろ良かった旨が論考されています。

  • #2

    クリクリ (月曜日, 09 10月 2017 08:17)

    牧之原南部地域には河原﨑多いですね
    文字や読み方も少し違って何件もあります榑林、松下なんかも多いように感じます

  • #3

    今井一光 (月曜日, 09 10月 2017 18:17)

    河東さま
    ありがとうございます。たくさんの書物を手にされているところ感服します。
    私も三浦は四ノ宮屋敷に居たという件を聞いたことがありますし、「沓掛原」はただの
    埋葬の場ということも考えられます。ただしあまりにも人数が半端でないため抵抗があったのか自害に至ったのかは知りませんが、沓掛原屋敷を推測しました。
    「昨日の友が今日の敵」を地で行く今川崩壊の過程「遠州忩劇」でしたし、またそういう関係があったからこそ小笠原の判断とその結果は後世「やりすぎ」と評されたかと思います。

  • #4

    今井 一光 (月曜日, 09 10月 2017 18:25)

    クリクリさん
    ありがとうございます。
    松下姓は遠州古くから見えますし榑林(紅林)とも「高天神」との関わりが深い
    家もあるようです。
    また河原﨑・川原崎に関しては拙寺と関係の深いもの(近江から来た河原崎の一統)とまったく関係のない系統があります。

  • #5

    酒井とも (水曜日, 11 10月 2017 13:41)

    こんにちは。松下氏は遠江の発祥姓だと考えております。榑林氏は佐倉の方の調査ですと、韮崎市もしくは北杜市の当たりの出自だと聞いております。
    川中島の善光寺別当栗田氏同様に武田方として、高天神城に籠り、比木へ落ち延び、佐倉を開発したのではないでしょうか。
    うろ覚えですが、紅林姓は榑林姓とは違う発祥だと聞いたような。
    ところで、新野左馬助の出自が信州の上田氏で一族の新野氏を継いだと記憶しておりますが、左馬助の長女も左馬助の実家の上田氏に嫁いだのですか?

  • #6

    今井 一光 (水曜日, 11 10月 2017 20:37)

    ありがとうございます。
    「榑林-紅林」については明治以降の混同を考えて記しましたが
    元々の発祥は違うようですね。
    高天神籠城関係者として「榑林と紅林」は並記されていますので、そもそもが別系統
    であることを示唆しているのでしょう。ただし断定はできないかと。
    榑林が「韮崎市・北杜市」の件は頭に入れておきます。
    ちなみに参考まで。
    藤田氏の書には「榑林一族」と題して
    「天正九年三月、高天神落城の時、籠城の武田方将士で徳川方の包囲を突破して
    脱出、国安川を渡り、比木の金峯山正福寺に前華厳院五世住職南耕舜啓和尚を訪れて
    隠れ、その後佐倉村法の沢に落着して帰農した榑林氏一族がある。
    一は八兵衛氏同族十戸
    一は七兵衛門同族三十戸
    両本家とも天正年間の馬具、刀剣、弓矢等の遺品を蔵している」
    とありました。

    また新野家出自に関しては当地域土豪・国衆と同様、鎌倉幕府配下の地頭職そして
    藤原南家発祥を推測します。
    当地「新野」に関しては本来元々ある「新野」の系統と今川時代に名跡を継承した
    「新野」があると考えています。この辺りの件も不詳です。
    また上田家の件は小生浅薄恐縮、申し訳ございません。





  • #7

    酒井とも (木曜日, 12 10月 2017 11:22)

    こんにちは。
    正福寺さんの位牌堂に伺うと、榑林姓の立派な位牌がずらりとならんでいます。今に続く榑林一族の繁栄をうかがい出来ます。

    ただ佐倉村入植時は苦労したでしょうね。佐倉区は今でもあまり水田が無いイメージが強く、東小学校より比木へ向かうには舗装路には立派な水田が拡がりますが、比木より流れ来る、筬川は天井川ですし、治水管理が出来ていない天正期には一面沼地だったのでしょうか。

    ところで、先日の祭典で他組の私にお酒をふるまってくれた方が榑林君。
    よくよく聞けば、私の親友の奥さんのいとこ、親友の奥さんは私の中学の同級生、さらに榑林君は私の妻の高校の同級生でした。御縁は不思議なものです。

  • #8

    今井 一光 (木曜日, 12 10月 2017 12:05)

    ありがとうございました。
    以前正福寺周辺を歩いてブログで記しましたが
    位牌堂に元祖榑林氏の位牌が並んでいたのですね。
    さすがに部外者の私はそこまで入れませんが・・・。
    門前に古い墓の残欠が並んでいましたので思いはそちらに行くばかりでした。
    (2014/8/4)
    私は筬川に架る橋の「海戸」の名にも面白さを感じましたが、何よりも
    蛍が生息していたことに驚きました。
    また横須賀方面に抜けるに尾根伝いの道を使用したといいますので、川沿いの道の整備は
    案外新しい可能性がありますね。

    遠州中部はどちらかといえば近年まで狭いエリアでの閉鎖的でかつ温厚な人々の
    生活圏でしたから「みんな親戚」みたいなもの。
    婚姻関係も身内と同郷からが圧倒的だったでしょうね。