小原鎮実の処断 怨念の播種 「富本」地名の転訛

昨日朝方の空気で「完全に夏は去った」とそれを名残惜しく感じ入ったものですが、まだまだ半袖シャツ1枚にて過ごすことができました。

やせ我慢ではなく、何をするにしろ快適な時間をおくれますね。

ただし就寝時無防備と、うたた寝は禁物です。

 

西から天気が崩れる予想が出ていますので、私は地頭方処分場ゴミ処理に一往復してからお方様のご上洛(叔母自宅掃除と除籍等手続き)のため金谷まで見送りました。

通常ならバスにて静岡まで行ってもらいますが今回は東名高速の集中工事がありますので、直接在来線乗車コースを選択しました。

 

大して強さを感じませんでしたが一日中風が吹いていました。夕方の天気予報でも強風注意報が出ていたくらいです。

私は連日に渡ってバイパスを利用したのですが昨日も「前代未聞」の現場に遭遇しました。

昨日はやはり翌日の雨天の予報があったためか、連休前にやっつけようという意図か、この辺りのお茶農家は一斉に早朝より三番茶の刈り入れをしています。

茶農家によっては3回目以降の収穫は「肥料代にもならない」と期待値の低い仕事のようですが、これはこれでペットボトル用になる茶葉ですので行き場所はしっかり用意されています。

 

ここで思いだすのが新茶シーズンに入ったばかりのペットボトルの新茶マーク。どの程度の量の新茶を混ぜればそれを掲げた商品になりうるのか甚だ疑問ですが(そもそも新茶が出回る前から店先に並びます)、ここ地元の人に言わせれば「ひでぇインチキ」と。

間違っていたらごめんなさい。私も大いにそう思います。

 

いずれにせよ茶葉は鮮度が一番。刈りいれたら瞬時に工場に持ち込まなくてはなりません。

選別も厳しくここでの検収が農家の信用を左右させますね。

鮮度の悪いもの劣悪な素材を納入すれば出入り禁止になるとも聞きます。

 

よって茶葉用の大きな袋を満載山積みにしたトラックがバイパス上を「はやくはやく」という感じで行き交っていました。

ところがその積載の様子たるやかなりというか超のつくイイ加減さ。

そこにあの強風ですから何と私の昨日の金谷1往復で茶袋3袋が路上に転がっているのを見ました。

そのうちの1つは車線のど真中、コレは通報しなくてはならないと思って減速しながら思案していれば前方にトラックを路側帯に駐車しドライバーらしき人が必死の形相でその荷を回収に走っているところでした。

 

あとの二つは既に走行車両に当たってしまったのか中身の茶葉が半分以上出ているものでした。なんとも連日の「のどかなド田舎」を見た気がしましたが、「事故が起きなくて幸い」とご当人たちが思ってくれなくてはしょうがないですね。

目前にあのデカ袋が迫った際は一瞬パニックに陥りますよ。

後続車が事故ってしまったらそのまま行ってしまいそうで怖い・・・袋に名前でも書いてあるのでしょうかねぇ。

 

さて、昨日ブログの小原鎮実続き。

信玄に追われて逃げ延びて行き着いたところが今川恩顧で旧知の小笠原長忠の元。まぁ花澤城から駿府方面、東方に逃亡するという選択肢はなかったでしょうが・・・。

そこを小笠原が手を貸すなど「さらさらない」と言ったかどうだかわかりませんが拒絶したあげく、(おそらく)軟禁し自害に追い込んだというものでした。

 

尚、彼の息子には彼同等に「憎まれ役」の三浦宗有がいますが、他に小原甚兵衛なる子が居て、花澤城脱出後は父に従わず、越後に流浪したと「藤田鶴南」氏(「高天神の跡を尋ねて」)にあります。甚兵衛は上杉謙信に仕え、その子の四郎右衛門は景勝に仕えたとのこと。

単独で越後に息子をやったことが事実だとしたら小原鎮実の判断は大正解だったということですね。一緒に高天神城に参ったら連座させられることは違いないところ。

そういう意味では鎮実は小笠原の出方についてまったく信じてはいなかったのでしょうね。

 

さて、昨日記しましたが小原鎮実が種まき、怨念の嵐を招いたその処断とは吉田城時代の龍拈寺(こちらも)門前で処された「串刺し」事件でした。

これは事件として誇張された部分があるような気もしますし、裏切りに対しての人質の処遇としてはお決まりコースの時代ですから、まぁ時代と状況からして「致し方ないこと」とは思われますが、そもそもあの「串刺し」事件はあくまでも今川氏真の命令があったからこそだと思います・・・。

誇張というのはその「串刺し」表現ですね。

磔にされて槍で突くというやり方がオーソドックスな処刑方法ですが、どこかでその表現に怨念と悪意によって変じたのかもしれません。しかし残忍非情さでは秀吉による秀次事件には及ばないでしょう。

 

龍拈寺で処刑されたのは人質として吉田城で暮らしていた奥三河は「山家三方衆[やまがさんぽうしゅう](~三河物語)」と呼ばれる①作手、奥平氏②長篠、菅沼氏③田峰、菅沼氏の婦女子たちです。彼らは戦国の「家」に生まれて今川―武田―徳川の勢力争いの中、大いに翻弄させられたグループでした。

 

話は飛びますが、大河ドラマはこれから戦国時代を離れますが、予想として次の戦国採用大本命は明智光秀(私の勝手)。また、相当突っ込んだところですが希望を含めてこの奥三河国衆周辺の危機的状況の数々を描くというのも面白いところです。

小原鎮実も当然に悪役としての登場が期待できますし。

 

処刑された人々は「十三人」といわれます。

この数字というものは各説があってハッキリしませんが龍拈寺から離れた「富本」という町名がある場所、現在は田原街道(国道259号)愛知大学前の北の「富本町」交差点のさらに一つ北に「高師口」という陸橋のある大きな交差点がありますが、その付近に埋葬されたとのこと。

交差点には小さな石碑が立っています(場所はこちら)。

 

その近く、豊橋駅方向に向かった福岡町に地蔵と看板が立っています。

数年前の画像ですが看板は更新されているかもしれません。

 

石田三成は関ケ原戦直前に結果的に細川ガラシャを殺しますがそれが徳川方の団結心を強固にさせる要因となったことは確かです。

看板の通りに裏切りの代償をあのような苛烈な形で負わせれば今川氏真と直接手を下した小原鎮実への恨みは絶対的団結心となって発現するでしょうね。

高天神城主小笠原長忠はそこのところ、家康はもとより三河衆に忖度して、小原鎮実の入城を拒絶、腹を切らせて首を家康への「手土産」にしたのでしょう。

 

私がホントかよ・・・と思ったのが「富本」という町名が実は「十三本」からと。「本」とは何か?

「人」「首」「からだ」「磔柱」「槍」・・・

「富本」はキラキラネーム・・・?

 

また「十三」のつく墓や塚、そして「富」がつく地名は日本全国に渡って見られます。「富塚」なる苗字もありました。

いろいろ決めつけはイケませんが・・・

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コメント: 8
  • #1

    野村幸一 (金曜日, 06 10月 2017 10:08)

    それが本当の話だと、縁起の悪そうな名字になってしまいますね。『富本』字面だけ見れば良いイメージですけども。13本、首ですかね?

    当家の奥方の旧姓は点の無い『冨』が付く名字ですが、やはり13が絡んで来るのか??

    仕事上で関係のあった人物で『富本』サンがいました。一見とても気さくで優しい良い人の感じでしたが、実は打算的で底意地の悪い方でした(笑)

    13という数字はやはり良い意味無いのですかね?13階段、13日の金曜日、私の出席番号13番…。

  • #2

    今井 一光 (金曜日, 06 10月 2017 17:40)

    ありがとうございます。
    ブログはごく稀な説を私の無責任で勝手な思いを書き散らかしているだけですので
    笑い飛ばしていただければと思います。
    日本の「十三」という数字は
    「13階段、13日の金曜日、出席番号 13 ?・・・」とは全く関係なし。
    おそらくベースにあるイメージとしては「あの世の差配」(十王+三)の「十三」・・・「十三仏」であり中国の道教思想と仏教のミックスから土俗的民間信仰として日本人の精神に
    秘かに残っている「数字」なのだと思います。
    よっていろいろな立場の人たちがいろいろな状況(良し悪し関わらず)でその数字を使用したという経緯があってその「正確な数」は案外どうでもイイことであって(11~13以上・・・?)とにかくその数を使用することに意義があったようです。

  • #3

    富本町出身 (月曜日, 13 11月 2017 00:12)

    富本町は、元々は橋良町(はしらちょう)でした。
    国道259号線の一本裏(愛知大学とは反対側)に大崎街道というメインストリートがあり栄えていたのですが、明治40年に陸軍が来てから259号線が作られました。軍用道路?ですかね。
    大正の頃に橋良町の庄屋と農民とで諍い(具体的な内容は忘れました)があり、橋良町から新しく区画が分別し、住民たちの「何という町名にしようか」という話し合いから「十三本塚から、とみもと、縁起の良い漢字で富本にしよう」となり、現在の富本町となりました。
    戦国時代からの土地の歴史を、近代になっても忘れないで受け継いでいる町名です。
    因みに高師口から南へと縦に伸びていき、時習館高校の敷地までが富本町です。(かなり広いです)
    愛知大学、時習館高校、工業高校、中学校1つ、小学校3つ、保育園1つ、聾学校1つ、全てが隣接しており、今では文教地区ですが、明治40年に陸軍が来て、その広大な敷地には第十五師団がありました。空襲で焼け野原となったそうです。
    富本町には小字名が2つあり、字東郷(橋良町の東側にあったのが由来だそうで)今は無くなりました。
    もう1つは、字国隠。
    国が隠れるとは、なんともミステリアスな地名ですが、富本町に住む80代の高齢の方でも、その小字名の由来は「分からん」との事で。
    陸軍が来るまでは人が住んでいた土地ではなかった、軍用地に使われる様な土地、との事で、埋葬されたのは字国隠辺りではないかと、私は推測しています。

  • #4

    今井 一光 (月曜日, 13 11月 2017 12:08)

    ご当地の詳細な歴史と地名の成り立ちをご紹介いただきありがとうございます。
    国隠の地を確認させていただきました。
    愛知大学前の259号を挟んで西側ですね。その北が富本。
    十三本塚石標のやはり259を挟んだ東の寺原・寺坪・高師なる名称も気にかかりましたが。
    古い地名を変えたとしてもそのヒントを残していただくことは嬉しいものです。
    また豊橋をブラつきたくなりました。
    ありがとうございます。

  • #5

    富本町出身 (月曜日, 13 11月 2017 19:30)

    追記です。
    私は「字国隠」で生まれ育ち、思春期頃までを過ごしたのですが、かれこれ20年近く、その地名の由来を調べています…が、まだ不明なままです。
    259号線が出来るまで、現在の富本町付近は「高師村大字福岡」だったそうです。
    その頃、寺原・寺坪も含まれていたかどうか…?は分かりませんが、近くにお寺は無いので、どこのお寺から来た地名なのでしょうか?不明です…。
    大正10年に富本という町名が出来たそうですが
    「戦時中(どの時期でしょうか…?)父から「高師村大字十三本塚」という宛名住所で、戦地から手紙が届いた」と、富本町在住の高齢の方からお聞きしました。
    富本町の向坂さん宅に、十三本塚(姫塚とも言うそうです。処刑されたどなたかが埋葬されたとか。)があり、毎年お祭があるそうです。
    ただ向坂さんも代々「毎年弔うように」と言われ続けてきただけで、本当にそこが十三本塚だったかは分からないとの事。
    大崎街道と呼ばれていた、かつてのメインストリートですが、細い裏路地の様な道で、街道の面影は無く、つい最近まで私も知らなかったのですが、散策すると面白いかもしれません。
    また、高師緑地公園がかなり南側にあるのですが、富本町にまで「高師」の名称が出てくるのは、子供ながらに不思議に思っていました。
    259号線含む愛知大学〜高師緑地公園までの土地は、今も面影ありますが松林が広がる土地だったのかもしれません。

  • #6

    今井 一光 (月曜日, 13 11月 2017 23:54)

    ありがとうございます。
    「向坂さん宅の姫塚」には強く興味をそそります。
    私も色々な場所で「自宅で祀る」古い塚、石塔というものに出くわしますが、人目に触れずにただし大切にされている姿は嬉しいですね。こればかりは協力を得られなくては絶対に不可能ですが「個人宅に残る古い石塔と由縁」をまとめたら日本全国これまで検証のなされなかった遺物と新発見があるでしょうね。
    また向坂さんという、名も遠州特有の「匂坂」派生の姓のように感じます。
    今川時代に土着した一族?などと想像を膨らませてしまいます。

    ご投稿いただいた内容は今後とも活用させていただきます。

  • #7

    ある歴史研究家 (木曜日, 15 3月 2018 20:14)

    今から40年程前になりますが、この向坂家のご近所に住んでおられました
    郷土歴史研究家である中島様のご紹介で寄せて頂いた事がありました。畑の
    端に小高い丘の様な物があり其処に楠だったと思いますが守る様に生えてい
    ました。中島様のお話では其処に十三名の人質の遺体が埋められているとの
    事で、殺された女性の中には若い姫子もいたとの事でしたので持参した菓子
    をお供えしてお参りしました。周囲には竹が一杯生えておりどこから来た物
    か分からなかったのですが、中島様の話では竹槍で串刺しにしたままの遺体
    を埋めたので、その竹が生えてきた物では無いかとおっしゃっていました。
    富本の本は竹槍が13本と言う事では無かったのでしょうか。南無阿弥陀仏

  • #8

    今井 一光 (木曜日, 15 3月 2018 20:38)

    ありがとうございます。
    「富本の本とは竹槍13本の 十+三+本」はいよいよその通りの伝承でちがいないと
    合点した次第です。
    話の内容も女子供が犠牲になったということからそら恐ろしいのですが
    「串刺しにした竹が生えて竹藪になった」の談には「まさか」とは思うものの
    伝承を忘れずに伝えていくにいかにもインパクトのある推理です。