墓は小さいながら大悪役の強烈キャラ 小原鎮実

残念でした。中秋の名月は雲の中。楽しみにしていたのですが・・・しかし昨日は呆れ果てた図を目にしました。

バイパス(大沢インターと菅山インターの中間点)の車道脇に車を停車してススキ刈りの様。

この場所は緩いながらカーブになっていて見通しがいい場所ではなく以前死亡事故があったところ。

まぁ名月につきものの「コレで一杯」の風雅・・・はわかりますが助手席のお方様に「あれじゃあ自身枯れススキ」とあまり利口とはいえない行為に開いた口が塞がらないでいました。

 

若い人たちがハメを外して無謀な画像を撮影してサイトupすることが流行っています。崖や橋から落ちて命を落としたり怪我をすることがあるようですが、自分独りで結果的に責任をとる(想定外の死にいたる)ことは「しょうがない」という語で済ます他はありません。

高速でガンガン走るバイパスに停車してイイ歳したおっちゃんの植物採取の暴挙はあまりにも(昨日にひきつづき)「バカ」としか・・・。それもスペシャルな。

後続車の追突ともらい事故は往々にして本線上駐停車が引き起こしますね。

 

さて、本日は久々小原鎮実。ブログでも何度か登場しています。花澤城宇津山城ですね。他にも城でいえば今川時代の三河吉田城で伝わる彼の名は一種独特のワルのイメージを確立した地でしたね。

時代順位としては上記三城の羅列の逆となりますが、彼は今川義元から氏真への波乱の東海地区にあって、遠州忩劇の中、今川衰微に愚直にまでに抗ったという点ではある意味「筋金入」の武将としての評価は高いものがあります。

 

徳川・武田の有名どころの挟撃を受ける駿府方に各城代として合戦しつづけ、敗色濃くなれば必ず生きて逃げ切るというしぶとさも賢さも持っていた人ですね。

しかしながら鎮実は最終的に逃げ込もうとした高天神城にて自刃させられています。

この辺り概略を例によって「高天神城の跡を尋ねて」から抜粋すると

 

「氏真の武将で駿州花澤城主の小原肥前守鎮実は永禄十一年十一月武田信玄に攻略されて遁走し、旧知を頼って高天神城主小笠原長忠を尋ねて救助を求めた。長忠は永禄五年四月、鎮実が三州吉田城主の頃、家康の部下妻子を故あって串刺にした事実及び不当の数々を述べて鎮実の乞いを許さず之を追放した。鎮実は止むなく城下の毛森村にて自害して果てた。この地を今に小原屋敷と言い五輪の塔が建てられている。」とあります。

 

この「毛森」という地は「煙」(烽火台)から転じた地名ですが(勿論丘の上に烽火台はあったでしょうが)、小原屋敷の位置としては武田勝頼が陣を敷いた惣勢山(場所はこのあたり)砦の南側辺りです。

伝小原鎮実五輪塔は私有地の奥にひっそりと建てられていますが代々そちらのお宅にて仏事は催されているとのことです。

家主にお聞きしたところによるとこの墓石は本来はもっと惣勢山側にあったといいます。尚墓石の標識、案内等は一切ありません。

下図は惣勢山南西側。道路を挟んで2つの標識があります。

③の奥に高天神城が見えます。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    河東村出身者 (木曜日, 05 10月 2017 07:44)

    やはり小原鎮実の墓は三浦右衛門の右衛門塚とは別にあるのですね。

    藤田氏の頃から歴史研究が進み、花沢城は永禄11年には落ちなかったことがわかっていますが、武田の第二次侵攻で落ちているので、その後高天神まで落ちてきたということでしょうが、そうすると右衛門塚の事件には高天神城の小笠原の関与は薄いのかもしれません。

  • #2

    今井 一光 (木曜日, 05 10月 2017 08:29)

    ありがとうございます。
    小原と三浦父子の墓場に関して、私の出遭いとしての順番は高天神からです。
    よって頭の中ではずっと小原鎮実の五輪塔の所在の通り、小笠原の非情は高天神での出来事と思っていました。
    小原が未だ小笠原が今川方にあると信じていたかどうかはわかりませんが他の子供達を分散させているといいますのでやはり今川家臣団で袋井岡崎の四ノ宮に逃げ込んだことは頷けます。
    その後の史料が結構に混同(小笠原の父子成敗が岡崎なのか高天神なのか)しているかの雰囲気がありますが・・・。
    私はどちらにしろ(沓掛原か小原屋敷か父子別々か)家康方へ降る小笠原の意図、父子の首を手土産とした挨拶とオーバーな意思表示が一統惨殺に繋がったと思っています。
    墓の所在を信じればそれぞれの場所で亡くなったと思っています。