高草山の直下 武田方からはお見通し 花澤城

駿河で「山西」の「山」といえば高草山。

駿府のある安倍川扇状地域とを線引きする高草山から西方の大井川系東側の扇状地のことを言いますが、「西」は今川家としてどうしても警戒すべき方向でした。

当初の最大のライバル、遠江守護斯波氏が勢力を維持していたためです。

 

しかし駿河の地を凌駕したのは西方からではなく、富士川から南下した甲斐の武田でした。

凋落した斯波氏に代わって台頭した松平(徳川)ではありましたが、武田との申し合わせで大井川を境界にして西(遠州)を徳川、東(駿州)を武田と今川氏真の知らないところで勝手に決められていたものでした。

 

武田が一気に駿河になだれ込むことなどは、当初は想定していないことだったでしょう。

ということで「山西」の城たちは形状からしても北から東方向から攻めたてられることなどは想定外、将に「鬼門」(北東)であったことは違いないところですね。

 

東名高速と並行して走る国道150号線、焼津の端の長いトンネルの手前に「高崎」という交差点がありますが、そちらから北をみれば例の高草山。

その地名は「高草山の先」からきたことが十分に推測できます。

 

こちらにある花澤城は天文六年(1537)、前年に花倉の乱を制して今川家を継承した義元が、抗争状態にあった甲斐武田信虎の娘を正室に迎えたあたりに築城されたと説があります。

どちらにしろ駿府の「鼻先」であり、西を守るための要衝であったことは変わりませんね(場所はここ)。

 

永禄十年(1567)、武田の駿河侵攻によって氏真は掛川城に籠城、そして開城降伏というドタバタを演じて今川家は滅亡したのですが、その武田の駿州管理には相当の不手際があって、当初はまだら模様。

 

特に花澤城の戦いでその名が残るのは永禄十三年、武田との戦闘です。

駿河侵攻が永禄十年に始まって、主君今川氏真が駿河を去ったにも関わらずその間、北と東からの脅威に対して籠城し続けたのが城代の大原肥前守資良(小原鎮実)でした。

 

小原鎮実はいわくつきながら、当時今川恩顧の家臣が次々に「武田か徳川」の選択肢を採って命(家)を繋ぐ中、比較的最後まで「今川」を捨てなかった人です。

というか、あまりに今川の元でその安泰と政策的な横暴に関与して、他家での服属と出直しをやろうにも出来なかった状況だったと思います。

 

花澤城本曲輪のある山は標高が低く(150m程度)北側には高草山がそびえています。

信玄・勝頼以下、武田の蒼々たる兵どもが包囲の陣を敷いたのは高草山でした。

城内の動き、すべての事が手に取るように分かる位置関係です。

 

この高低差は完全に想定が逆ですね。

北側の高草山に接する守備曲輪には上から色々なもの(石・丸太・熱湯・糞尿そして矢)が降って入れられたことが推測できます。

三週間程度は籠城戦を試みたようですが、大原(小原)は開城降伏しています。

 

武田勢は花澤城を落したあとは山西の完全平定に動き、徳一色城(のちの田中城 駿河の城2件)を攻めて長谷川正長を追放します。

 

画像は今年の2月頃の図。

低い山で、そう距離はないですが、農道から上がる道は良くないです。

本曲輪南側の空堀のまた南側に骨壺らしい甕が転がっていました。しかし江戸期頃のものでしょうか、城とは関係ないでしょう。