原爆投下以前に日本は死に体  豊橋空襲 龍拈寺

70年前の8月9日は広島に続いて長崎に原爆が落とされた日。

広島の3日後のことです。

その日は昨年の8月に亡くなった千代さんの一周忌の法要が午前10時からあり、その中11時02分の投下時間にあわせて梵鐘が撞かれました。

牧之原市ではサイレンを鳴らしてそのことを市内に知らせていますが、やはりサイレンよりは寺の鐘の方がしっくりきていました。

 

ただし、8/6に続いての鐘撞きでしたが、今回は個人の法要の最中に境内の梵鐘が撞かれるということですので少々心配ではありました。ちょうど鐘が聞こえ始めたのが「正信偈」のタイミングであり、私の主観としてはイイ感じではありました。

参列者の中には「故人のための演出」と思った方もいらしたよう。挨拶の際に「長崎」にあわせましたということで了承いただきました。次は8/15です。

 

さて、8/6に広島の翌日、長崎の2日前の8月7日は東三河宝飯郡の中心、豊川が空襲を受けた日でした。世に言う「豊川空襲」です。此の地には銃弾と機関砲等を製造する「豊川海軍工廠」という大規模な軍需工場があって何故かそれまでこちらを狙い撃ちする空爆は無かったのでした。

アメリカ軍の作戦がどういう理由なのかわかりませんが、広島の翌日はこちら豊川は250kg爆弾の「雨」でした。爆撃機はB-29で同様ですが、約130機の襲来、たった30分間で3,256発をばら撒きました。

 

軍需工場は勿論、豊川は壊滅、なによりも可哀そうなのは勤労動員されて工場の主役に居た中高生や女工さんでした。当時成年男子は戦場に出向いて殆ど残っていませんから。

男193名、女259名が工場で亡くなったとのこと。工場は雷管や火薬を扱っていましたから、火が付いたら手の付けようが無い火焔地獄が想像できます。既に日本国内には爆撃機を迎撃する飛行機は残っていず、ただ見ているだけの如くだったとのこと。


広島の原爆被災年齢別犠牲者の統計を見ましたが12歳と13歳が断トツでした。結局戦争は子供たちが一番被害を被るということですね。そしてまた子供たちにその辛苦を味あわせたという事実がまた辛いこと。


その空襲より1.5カ月前、6月19日深夜にお隣の豊橋が空襲に襲われています。それが死者624重軽傷346を数えた豊橋空襲です。その晩は静岡の上空にもB29の編隊130余機がやってきてやはり爆弾の雨を降らしています。

これらは夜間空襲ですので目視ではないということからデータを取るというよりも違う目的があったのか、ただの流れで「適当に」爆弾を撒きに来たのかはわかりません。

 

昨日は東三河は門徒寺が少ないと記しましたが、豊橋で目立つのは主に曹洞宗。こちら龍拈寺(りゅうねんじ 場所はここ)は牧野信成が父の牧野古白(牧野成時)を供養するために建立したお寺で、特に江戸期の吉田城時代には家康の庇護もあり「吉田山 きちでんさん」という山号を冠として末寺36ケ寺を誇る大寺院に成長しました。

 

豊橋空襲に於いても寺は殆どが焼失しますが、山門のみ、その災禍から逃れることができて、今もその威容を目にする事ができます。この門の開口部からはその時の惨状を映し出したのでしょう。

 

画像④⑤は豊橋の東海道と豊橋名物路面電車。