矢作橋絵図書き下し 岡崎二十七曲 田中吉政

昨日は今年になって一番に快適な日となりました。

まぁ暖かくて無風ということですが、大いに外仕事に励みました。

土を掘り起こし重量物を移動するなどしたあとは懸案のぼさぼさのソテツに取り付きました。

 

本堂前の「彼」は特に手強く簡単には制圧できませんね。

ただ軽トラを近くまで付けることができますので作業効率はヨシ。今後本堂裏のソテツはそれ以上に厄介な仕事となります。

本堂裏側は今やジャングル状態。

やること多すぎで「春」は忙しい。

 

軽トラ一車分を処理場に持ち込みましたが現場では①焼却対応か②植物粉砕堆肥用かを迷ったいたようです。

というのは相良と御前崎では②の受け取り業者が違うようで御前崎の方はソテツの受け取りはNGになっているよう。

最近はソテツを持ち込んでいませんでしたからね。

 

まぁ焼却にすればいいのですが②ではサイドのアオリを下げてただ現場にぶちまけるだけでOKなのですが、焼却となると相当面倒なことになります。

みっしり詰まっているそれを後部のみから下ろすのはキツいですね。ダンプならともかく。

 

特にソテツの幹の部分はどちらも受け取りは拒否されそうな感じが漂っていました。

私もあの幹部分の鋸刃を拒絶するような硬さを承知していますがやはりその処理はどちらでも面倒なモノだったようです。

一瞬間、外に張り出したそれをチェーンソーを持ち出して切ってやろうかとも思いましたが「お持ち帰り」になる可能性がありました。

しかしながらソテツは生育が遅いとはいいますが、これほど大きかったか・・・と思いながらへろへろになっていました。

3年ほど放置していてつくづくそれを感じました。

 

昨晩になってあの静観しつつ「衣料品の提供は人道上・・・」の屁理屈を言いながらロシア居残りを決めていたあの企業がここへきて「やっぱやめる」という具合にロシア国内の営業を`当面`取りやめるというニュースが入ってきました。

まぁトップが下の者の意見をようやく聞いての判断だったのでしょうね。「カネより人道」の論理ですね。

この他社の動きを見ての日和見の姿勢が三流企業の烙印を押されるということを理解しなくちゃあね。

「後塵を拝した」ということになりました。

 

さて、昨日は「岡崎市史」の矢作橋の件、ご紹介いただいてのあれこれについて記しましたが、吉祥寺の叔父が拙寺の土蔵から出てきたあの矢作橋の図面の文言を書き下してくれましたのでここに記します。

 

そしてまたスウェーデン人ヴィルマンの記述にあった矢作橋について、岡崎伝馬町通りの掲示板がありましたが、まだあの通り上には他にも矢作橋についての各掲示板の記述があります。

 

「岡崎二十七曲」という岡崎市街中心部の街区の再編成があったのですがそれが田中吉政(またはこちら)時代だったのでした。

要はその27にも及ぶ街路の「曲(くせ)」(クランク、虎口)は当時の大坂(秀吉)配下時代の田中の江戸にいる家康の「西上除け」ともいえる戦術上のつくりでした。

 

家康や三河武士団の故郷、岡崎の街区の構成のベースが大坂の意向、田中吉政の手によるものというのも面白いところです。

また田中が矢作橋に橋を架けているのです。

岡崎の為政者として東海道矢作川に橋を架けることは大きな使命だったのでしょう。