謎 何故か拙寺の土蔵から出てきた 三州矢作橋図面

 

大晦日に境内でスタッフに提供されたヤマメの件、その提供者が新年の挨拶に来られました。

好評につき4月の春の法要の寺楽市に備えて3月の解禁から頑張って釣りまくるとのこと。

私は竹串担当。

次回は「食べます」と。

 

欧州にアメリカと軒並みオミクロン感染大爆発の状況を見て、一説に言われている2月の日本国内感染者ピークはありうることと恐れ入っているところですが、やはり緩み傾向の現実からしてその痛みの再来を覚悟しなくてはならないのでしょうね。

そこのピークアウトのあと、次の変異があれば今年の法要だバス遠足だ・・・のお楽しみの数々は水泡に帰すこともあるワケで。

いつもの通り「勝手にしやがれ」と苦笑いしているだけですが。今年も「ついてない」となるか・・・それとも・・・

 

さて、拙寺古文書についてそれぞれを紐解いていくことは一言で言って「手に負えない」ところ大なるものがあります。

これから無くなるもの無くなったもの・・・の例として穀類を粉ひきする石臼やお寺の梵鐘など拙ブログで記してきましたが、今一つ感じるものは紙に記した書面でしょうか。

要は文書ですが、効率化重視の風潮を背景とした世にいうペーパーレス社会の推奨からそういった書き物は消えてなくなる運命なのかも知れません。

電光掲示板にモニター、電子書籍などがメディアの主役となって本や新聞、雑誌からとってかわるというもの。

 

当然にそれらに関わる職業・・・本屋・新聞屋など危うくなりそうです。よって私が「古文書」などと口にするその物体そのものがこれからは世に出てこないので人の記した過去の文書は珍品として重んじられるかも知れませんね。

 

土蔵を壊した際出てきた文書のうちこればっかしは謎である・・・とばッと見て隅の方に放置していたものがありました。

何せ意味不明なのです。

それが三州矢作橋の図面です。

一体全体「何のこっちやぁ」で隅っこに弾いていたのですが、自身それを邪険にしていた分、その書面の存在の不思議もあって記憶の隅にも常に漂っていました。

 

そこで自分一人「わからない」で済ますのも勿体ないと思い、拙ブログで紹介することとしました。

拙寺の代々古くから岡崎から安城にかけての矢作川近くに行き来している形跡はありますが、橋の設計や土木に関わった件などまったく聞いたこともありません。

 

画像は一部断片史料です。

どちらでも橋を復元しようなどいう酔狂があれば面白いかもしれません。