登屋ヶ根城 あの石積は城塞施設か猪垣か

長沢(旧宝飯郡音羽町)というごく狭いエリアについて記しています。

この宝飯郡がいわゆる「東三河」であって長沢は「西三河」との東海道の境に位置します。

こちらには古来よりの宮路という街道、そして南北の山に挟まれた狭小地を通る東海道を控える地という特別な場所です。

狭いゆえに多くの新しい施設(国道1号、東名高速、インターチェンジ、商店、鉄道、駅)が重ねて建設、そして段丘の開削による住宅が集約されたため、かつての歴史的遺構は喪失していることを記してきました。

また、現在地が推測の域を脱せずハッキリしていない伝承遺構もあったりします。

城郭大系の「その他の城郭一覧」から現在の長沢小学校にあたる地にあったといわれる長沢御殿(寛永十一年の家光上洛時の休憩所 288坪の敷地に30坪の御殿)もそうでしたが、その国道の北側、現状松平氏宅のある下側の低地に長沢町「矢倉下」なる、名からしてさもそれらしき遺構の存在と地形が連想できる地名ですが、その一覧に「381 矢田姫屋敷」~「家康の妹で長沢松平氏中興の祖、松平康忠の妻が居住した」~

また長沢町「大覚」には「372 大覚寺城」の記述~「創建者、規模とも不明。長沢古城の支城か」~があります。

 

それらは現状、遺構についてはサッパリ確認できませんが、その「その他の城郭一覧」の中で「何故にして本編で解説しないのだ・・・」と首を傾げたくなる、まずまずの城址遺構があります。

それがこのところサラッと記している長沢町「番場」の「373 登屋ケ根城」です。

記述としては「今川氏の一族関口刑部の築城、永禄四年廃城 堀が残る」と(場所はこちら)。以前記した「関屋」の交差点を細い道を南に進めばぶつかります。

 

永禄四年の廃城とあるように前年の桶狭間以降の松平岡崎勢(家康)の一気呵成の東進に吞み込まれたというところ。

昨日はフロノ下の語について「フロはムロ」から・・・などと記しましたが、「フロは頭」・・・という説もありますね。

その発想の元が「風炉」。

茶道具です。

要は茶釜を載せて湯を沸かす鉢ですが、その形状が人の頭部に見えることからというもの。しかし茶道具としての風炉の語が普及していたかどうか・・・

 

勝手な想像のこじつけを記せば戦いの勝者が敗者の、その風炉のように見えるもの(首)が並べた獄門台があったとしてその城の下方をそう名付けたのかも・・・などと思うワケで。

というのもこの関口の城を奪取する戦闘であの本多忠勝が生涯初の首をあげたといいますので。

 

①は昨日も記しましたが赤石神社から見た登屋ケ根城址のある段丘。こちらが東海道側からの図になりますので大手側とみて間違いないでしょう。

城郭はまず二郭に分割されている感。画像竹藪の中央低く見える場所に城郭大系に指摘されている空堀があって東西に台地を分割しています。

 

大外堀として大手側は音羽川の支流②千束川に搦手側に昨日記した小沢川に囲まれていてフカ田の湿地帯に浮かぶ台地を想像します。

⑤が中央を分断する堀。西側は切岸状になっています。

そしてその先の台地上は営業していない無粋な建造物によって開削され東の平坦地は農地になっています。

台地上の農地の境界線には例の石積みが各所に見られますが⑩私が城郭遺構の石積みと推測したくなったのは大手側上部に積み上げられたそれら。

竹藪の中ですが、傾斜がキツイにも関わらず維持できているのはその竹のおかげでしょうね。

 

⑪はフロノ下に下りる搦手⑫の手前の台地上の図ですが虎口を思います。

⑬は城址東端の図。